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よざくら

うしろめたい水曜

· カテゴリ: 日記・雑記

水曜は、店がわたしの手を離れる日だ。ヨシエさんが氷を割って、突き出しの小鉢を並べて、客の愚痴を丸ごと受け止めている時間に、わたしは、客ではない男の部屋にいた。ときどき連絡をくれる年上の人で、返事を遅らせるのがわたしの礼儀みたいになっていたのに、きのうは昼のうちにこちらから送った。夜の八時に会えますか、と。たったそれだけの文面を、打っては消して、スマホの小さな画面の前で十分も固まっていたのだから、機械に弱いのか、欲に弱いのか、自分でも判別がつかない。昼間は秋とは思えないくらい蒸して、夕方から風が出て、窓という窓がずっと鳴っていた。前の日の霧雨の湿りが、まだ街のどこかに残っていて、歩くと、ブラウスの背中がすこし貼りついた。

部屋に入ってすぐ、グラスを持つ左手に目がいった。薬指に、白い輪の跡がある。外してから日が浅いのではなくて、外す癖が長いのだと、跡の薄さでわかってしまう。わたしはそれを見て、見なかったことにして、氷の溶ける音だけを聞いた。見なかったことにするのが上手いのは、母に似たのだと思う。台所で黙って背中を向けていた人の、あの背中が、いつのまにかわたしの肩にも乗っている。ほどけた襟足を指で直すふりをして、そのくせ、直しきらないでおく。そういう小さなずるさを、客の前ではぜったいに見せないのに、客ではない男の前では、息をするみたいに出るんだよね、たぶん。

最初に触れたのは袖口だった。それから手首、祖母の時計のベルトの内側、脈のいちばん浅いところ。声の温度、というものは本当にあって、耳のうしろに低くたまると、膝から先の力がゆっくり抜けていく。わたしの声はかすれているから、二人ぶんの低さが部屋の中でこもって、ふいに楽器の胴の中にいるような心地になった。窓が鳴るたびにカーテンが息をして、そのたびに汗が冷たいところから順にひらいていく。首すじ、背中のくぼみ、膝の裏。シーツは最初のうち知らない人の匂いがして、それがいつのまにか、ふたりぶんの湿りと熱に塗りかわって、どちらの体温がどちらのものか、わからなくなる時間が、ずいぶん長く続いた。眼鏡もコンタクトもない目で見る天井は、ただの明るい染みで、その染みの中に、わたしの声が何度か浮いては沈んだ。

ここからは、きれいに書かない。わたしはその最中に、この人の家の食卓を思い浮かべていた。知らない女の人が、知らないお茶碗を洗っている背中。その背中に、わたしの汗の匂いを、一滴ずつ染みこませてやりたいと思っていた。奪いたいわけではなくて、汚したいのだ。何も知らずに寝息を立てている家の、いちばん清潔なところに、わたしという染みを一点だけ残して、帰りたい。そんな卑しい願いを抱えたまま、いちばん深いところで、わたしは笑っていた。かわいそうなのは奥さんではなく、こんな夜にしか息ができない自分だと、わかっているのが、またいやらしい。しんどい、という言葉は便利で、使うたびに罪が薄まる気がするから、あえて使わない。ガチでひどい女なんだよ、わたしは。

朝の手前で目がさめた。カーテンの端が灰色に薄くなって、隣の寝息は一定で、輪の跡のある手が、わたしの腰の上でまだ温かかった。それをそっとほどいて、床の服をひとつずつ拾って、玄関で靴の踵をつぶさないように履いた。帰り道、肩はひどく凝っていて、膝は笑っていて、首すじには、自分では見えない場所に赤い痕が一つ、たぶん残っている。お会計のほうになります、と誰かに言われたら、わたしは黙って全額を置いて帰るだろう。値切る資格のない夜だったから。次に連絡が来たら、また返事を遅らせるふりをして、三時間以内に返す。自分のことなら、それくらい、もう読める。

夜雑記

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