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よざくら

肩が先に答えた

· カテゴリ: 日記・雑記

霧雨の火曜だった。最後の客を送り出して、グラスの水気を拭いて、お勘定のほうになります、と言いながら、わたしはもう片方の手でスマホを開いていた。ときどき連絡をくれる年上の人に、ずっと遅らせてきた返事を打つ。ほんとうに、指が勝手に動いたのだった。さそわれたのは駅の向こうの古い宿の一室で、傘をたたむと、骨の先から水が落ちて、床に小さな輪をいくつも作った。わたしはそれを数えていた。誰にも触られていない月日を数えるのはみっともないから、数えないことにしていたのに、傘の水だけは、ちゃんと数えていた。そういうところがもう浅ましいんだよね、たぶん。

肩に手がのったとき、わたしより先に、肩のほうが思い出していた。こりで石みたいに固くなった場所へ、親指がちょうど落ちてくる。落ちるべきところを、体のほうが先に教えてしまう。ああそう、そこ、と声になる前に、首の後ろの力がぬけて、ゆるくまとめていた髪がひとりでにほどけた。首が長いのは、こういうときに不利なんだよね。隠せるところが、ない。襟足に息がかかっただけで、背中の皮膚が一枚ずつ目を覚ましていくのがわかって、眠っていたのではなく、ずっと飢えていたのだと、そこでやっと認めた。待っていた、なんて言い方は、格好をつけすぎかな。

シーツは最初つめたくて、体のかたちに沿って、少しずつぬるくなっていった。汗の塩のにおいと、霧雨を吸った布のにおいが混ざって、相手の口もとには、わたしがやめたはずの煙草の苦みが残っていた。舌が、いつのまにか、その味をぜんぶ覚えていた。皮膚はずるい。この人のことをろくに知らないくせに、知っているふりをして、膝も腰も掌のくぼみも、勝手にひらいて受け入れていく。わたしの体は、驚くほど素直で、いそいそとして、はしたなかった。低くかすれた声が、自分のものとは思えない高さまで上がって、天井の薄い灯りが、ゆがんだ。そのあいだ心は、玄関で靴もぬがずに立っていた。入ってこようとしないで、中の騒ぎを腕を組んで眺めている。体から半分はなれた場所にいる、もうひとりのわたしが、軽蔑のまなざしで言うのだ。ほら、また、気持ちいいんだ、と。

いちばんひどかったのは、そのあとだ。息だけがまだ荒く、ふたり並んで天井を見ていたとき、わたしは暗がりの中でその人の左手を取った。薬指の根もとに、白い輪の跡があった。外してから、まだ日が浅い。日に焼けていない皮膚の細い帯を、わたしは親指でゆっくりなぞった。知っていたのだ、最初から。知っていて返事をした。帰る家のある指だと分かっていて、その家の灯りを、今夜だけ借りた。昔、印刷会社の営業にしたのと同じことを、年だけ重ねて、もっと上手にやっている。奥さんの顔なんて、浮かびもしない。浮かぶのは、この体温がまだ必要で、朝までは返したくないという、それだけの欲。知っていて黙る母の背中を、あれほど憎んだくせに、わたしは今夜、黙らせる側に回った。他人の灯油で火をつける、安いストーブみたいな女だと思った。思いながら、指の輪の跡に、くちびるを寄せていた。

始発の前に、ひとりで宿を出た。霧雨はまだ止まなくて、街灯のまわりだけが、白くふくらんでいた。肩は、いつもよりずっと軽かった。こりも固さも、ぜんぶあの親指に置いてきたのだ。そのかわり、体のどこかが、ぽっかり軽すぎた。祖母の手巻きの時計は手首でちゃんと動いていて、それだけが、さっきまでのわたしを見ていた証人みたいだった。心の置いてけぼり、なんてきれいな言い方をしたけれど、あれはただ、体だけ先に満たされたことへの、いちばん安い言い訳なんだよね。連絡がまた来たら、わたしは返事をするだろう。明日になれば、肩はまた、あの親指をさがす。恥ずかしげもなく。

夜雑記

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