枕に残ったもの
きのうは風が強くて、店の看板がひと晩じゅうからからと鳴っていたせいか、なんとなく昔の男のことを思い出した。風のせいにしておく。
名画座の映写技師だった人で、去り際に「あなたは、人の話を聞きすぎて、自分の話を置いてこない」と言われた。いま思えば的を射ていて、そこがいちばん腹立たしいところなんだよね、たぶん。あの人は最後の最後まで、わたしの急所をいちばん丁寧な手つきで選んだのだった。刃物は、よく研いだ人ほど音を立てないものらしい。
朝の部屋のことも、まだおぼえている。フィルムの缶に染みついた、あまい酢のような匂いと、洗いざらしのシャツの襟にうっすら残っていた煙の気配が、あの人の帰ったあとの枕に、それだけ残っていた。わたしはしばらく、そこへ顔を埋めたまま動かなかった。未練というのは洗濯のきかない布みたいなもので、洗っても陽に当てても、ふいに首すじのあたりで息をするような気がする。
恨んでいるかと聞かれたら、まあ、いいか、と答えると思う。ただ、あの匂いだけは、いまの部屋のどこも誰にも貸していなくて、そういうところが、聞きすぎて置いてこない、ということなのかな。
ほどけた襟足をひとりで結びなおす朝がある。
鏡の中の目尻の細い線が、すこしだけ笑っていた。
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