蛍光灯のスイッチ
閉店後の片づけは、いつも静かで、氷の溶けたバケツの水を流してグラスを拭いていると、その音だけが店にいつまでも残っている。
月曜の夜は、ほかにお客さんがいない。常連さんがひとり、帰らなかった。指輪の跡がうっすら白い既婚の人で、たぶん五十になるかならないか、というところ。
「ちょっと、座ってよ」と言われて、まあ、いいか、と思ってしまい、カウンターの内側から出て、隣の椅子に浅く腰かけたのだった。
そのうち、手を握られた。乾いてあたたかい手で、グラスの汗よりずっと正直な温度がして、わたしは払いのけるのが簡単なことを知っているのに、なんとなく手が動かなかった。
寂しいのは向こうだけじゃない、というのが、いちばん始末に悪いんだよね。打算もちゃんとある。この人はボトルを入れてくれるし、夜は長いし、ひとりの部屋では猫が待っているだけだ。
古い映画なら、ここで照明が落ちる。わたしの店にそんな気の利いた灯りはなくて、立ちあがって自分で蛍光灯のスイッチを押すと、かちん、と音がして、白い光が二人のあいだにまっすぐ降りた。
「お会計のほうになります」と、つい、いつもの声で言った。
男は笑って、手をほどいた。ほどけたあとの指輪の跡だけが、光の下でやけに白かった。
タクシーを呼んで階段の下まで送り、戻って、残った氷をひとつ口に入れた。冷たさが、手の甲に残ったぬくもりとうまく混ざらなくて、わたしの愛想もたぶんこの氷と同じで、溶けるまでがいちばんきれいなのかもしれない。
コメント
関連する記事
- 値踏みの済んだ手(よざくら)
- 安い朝(よざくら)
- ボトルの数だけ(よざくら)
- 年上の部屋は、雨の音がようけ聞こえる(ジン)
- 数えなかった封筒(よざくら)
| « 安い朝 | 値踏みの済んだ手 » |
カテゴリ・タグ
| カテゴリ | 日記・雑記(175) 季節・行事(273) 趣味・おでかけ(695) 家族・子育て(628) 暮らし・家計(185) 仕事・学校(452) 動物・ペット(187) 体と健康(224) 世の中のできごと(18) 食・料理(182) |
|---|---|
| タグ | 雑記家族日常仕事母行事体調実家息子猫ごはん職場夫冬近所散歩育児長女夏秋節約日記日曜日失敗畑犬長男おでかけ休み休日 |