遅らせた返事
閉店のあと、返事を遅らせていた人の部屋へ行った。客ではない。年上の、ただの男。
雨が降りそうで、降らない夜だった。空気だけが湿っていて、街灯のまわりに、うすい輪がかかっていた。
玄関の灯りが落ちる。カーテンのすきまから、線路の光が細く入ってくる。ほどけた襟足に、指がきた。ブローチが先に外れて、机の上で小さく鳴った。背中のホックは古いから、ひとつ手間取る。その手間取る時間が、いちばんいやらしかった。たぶん。
布が床に落ちる順番を、わたしは見ていた。カーディガン、ワンピース、白い襟。電車が通って、窓がわずかに震える。壁で、ふたつの影がひとつになって、氷のとけるみたいにゆっくり揺れた。首すじから背骨のくぼみへ、汗がグラスの輪のように道をつくる。息が硝子を曇らせて、あの電車の音は、ある瞬間から聞こえなくなった。
朝の気配が来るまえの部屋は、散らかっていた。シーツの皺。止まりかけた祖母の腕時計。男の寝息は、規則正しくて、ずるい。
わたしの欲のほうが、この人より、ずっと正直だった。寂しさを寂しさと呼ばないで、人の体温で割って飲んだ。薄まって、うまかった。
帰りぎわ、男は「また連絡して」と言った。わたしは、返事を遅らせるのが、もう上手になりすぎている。
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