FC2

Field & Community Culture Platform

市民ブログ » 終電のあとで

よざくら

音のしない雨

· カテゴリ: 日記・雑記

回送電車

ゆうべは、傘をさすかどうか迷うくらいの、細い雨だった。店を閉めてから、返事を遅らせていた年上の人の部屋へ行った。たぶん、行くつもりだったんだよね、ずっと前から。いまそれを書くのが、いちばん腹が立つ。

片付けが終わったのは一時四十分。木曜にしては悪くない売上で、レジ締めの数字は一円も狂わなかった。レシートの束を輪ゴムでとめて、鞄の底に入れる。明日の昼、先代の甥に渡す分だ。あの人は口は出さないけれど、数字は見る。数字が合っていれば、だいたいのことは許される世界に、わたしは住んでいる。

合っていないのは、わたしのほうだった。

雑居ビルの階段を下りて、駅とは反対の坂へ歩いた。指先には、おしぼりを何十本も絞ったあとの、塩素とお湯の匂いが残っている。その手で前髪を耳にかけた。くせ毛が雨を吸って、ひと晩ぶん重くなっている。白髪が一本、街灯にひかって、それだけははっきり見えた。

途中のコンビニで、ガムを買った。息が気になったのだ。きんぴらの味見を三回したから。煙草をやめて四年半、口寂しいと何かを噛む癖だけが残った。レジの若い子に、こちらテープのほうでよろしいですか、と聞かれて、はい、と答えた。テープでいいもなにも、ガム一個だ。

坂の途中で、閉まった店のガラスに自分が映った。濡れた髪。赤い口紅だけが、閉店のときのまま、ちゃんとしている。そこで思い出した。下着が、量販店の三枚組の、いちばん色の抜けたやつだ。洗濯機の順番で、たまたまそれだった。引き返して着替える、という選択肢は、四階まで階段を上ることを考えた時点で消えた。

まあ、いいか。

見せる相手が、そういうことを気にする人なら、最初から行かない。と、いまは書いておく。ゆうべのわたしは、坂の上で、ちょっとだけ、気にしていた。

あの人の部屋は、線路ぎわの、古いマンションの二階にある。仕事場、と本人は言う。家は、電車で四十分ほど先の、ちゃんとした街にある。ちゃんとした街の、ちゃんとした家に、ちゃんとした名前の人がいる。わたしはそれを、最初に店に来た晩から知っている。左手の薬指に、外さない指輪がある人だった。外さないところが、ずるくなくて、それがかえって、ずるい。

インターホンを押す前に、ガムを紙に包んで、鞄のポケットに入れた。捨てる場所がなかった。

ドアがあいて、乾いた部屋の匂いがした。紙と、コピー機の熱と、インスタントのコーヒー。あの人は、ワイシャツの袖を二回折って、眼鏡をかけていた。家では眼鏡、というのは、わたしも同じだ。わたしはいま、コンタクトで、目が乾いている。

「濡れてきたの」と言われた。
「傘、迷ってるうちに、着いた」と答えた。

それだけで、部屋に上がった。靴を脱ぐとき、ストッキングのつま先が、雨を吸って色が変わっているのが見えた。あの人は、見なかったふりをして、タオルを持ってきた。洗剤の匂いが、うちのとちがう。うちのは、ドラッグストアのいちばん安いやつだ。このタオルは、たぶん、あっちの家から持ってきたものだ。そう思ったら、髪を拭く手が、一回止まった。

止まって、また拭いた。それだけの話。

あの人は、わたしの手からタオルを取って、かわりに髪を拭いた。拭く、というより、指で、ほどいた。店でまとめていたピンを一本ずつ抜いて、机の、書類のうえに並べていく。五本。几帳面な人なんだよね、たぶん。並べ方が、ペンを置くときと同じだった。

ほどけた髪が、首すじに落ちて、冷たかった。その冷たいところに、あの人の指の腹がのった。うなじの、生え際の、産毛のところ。指が、髪の流れに逆らって、ゆっくり上へ。耳のうしろまで来て、止まる。そこが、わたしの、弱いところだ。それをこの人は、去年の冬に、一回だけで覚えた。覚えのいい男は、だいたい、ろくでもない。

首が長いとよく言われる。客にも、母にも。首が長いぶん、そこを渡られる時間も長い。耳のうしろから、首の横、鎖骨のくぼみへ。指のあとを、すこし遅れて、唇が追ってきた。カーディガンの襟が、肩のほうへずらされる。冷えていた肌に、息だけが先に届いて、そこだけ、ふわっと湿った。

鳥肌が、腕の内側から、手首のほうへ降りていった。

わたしは、腕時計をしたままだった。祖母の手巻き。外そうとしたら、あの人の手が、それを押さえた。時計ごと、手首を持たれた。脈のところに、親指がのる。速いのが、ばれた。ばれたので、わたしも、あの人のワイシャツの胸に、てのひらを当てた。同じくらい、速かった。五十すぎの男の心臓が、こんなにうるさいのは、体にわるい気がする。

唇は、なかなか来なかった。来ないあいだ、おたがいの息が、鼻先のあたりで、行ったり来たりした。ミントの匂いがする、と言われた。ガムのことは、言わなかった。

最初の口づけは、乾いていて、すぐに乾かなくなった。

下唇を、ゆっくり挟まれる。離れて、また挟まれる。口紅が落ちていくのが分かった。この一本、四千円近くする。いまの給料なら払えるけれど、校正だけで食べていたころなら、三か月迷った値段だ。それが、あの人の唇の端に、うすく移っていく。あした、あの人は、これをちゃんと拭いてから、電車に乗るんだろう。拭くところまで想像して、わたしは、目を閉じた。閉じたほうが、楽だった。

舌が触れて、口のなかが、わたしの言うことを聞かずに、潤っていく。顎の先に、ひとすじ、冷たいものが伝った。あの人の親指が、それを拭って、拭った指で、わたしの喉をなぞった。喉が、ごくりと動くのを、指で確かめられた。

カーディガンが落ちた。ワンピースは、前ボタンの、八〇年代の紺の一着だった。小さな貝ボタンが、十二個ある。あの人は、それを、上から順に、外していった。ひとつ外すごとに、すこし間があく。間があくたびに、外気が、胸もとへ、みぞおちへ、降りてくる。十二個は、長い。長いのが、だんだん、たまらなくなった。七つ目のところで、わたしは、自分の手で、残りを外しかけた。あの人が、その手を、どけた。

腹が立った。気持ちよくて、腹が立った。

布が、肩から、二の腕を、肘の内側を、すべっていく。雨を吸った紺色が、肌に一瞬だけ吸いついて、はがれた。あの人の目が、下着のところで、止まらなかった。止まらなかったのは、たぶん、やさしさで、わたしはそのやさしさが、家で鍛えられたものだと、知っている。

鎖骨のくぼみに、唇が沈んだ。そこに溜まっていた雨の残りを、舌先がすくう。すくわれたあとが、空気に冷えて、きゅっと縮む。胸のあいだへ、ゆっくり降りていく。汗が、ひと粒、谷の底から、みぞおちのほうへ流れた。その道を、唇が、逆にさかのぼってきた。

膝の力が、抜けた。

机の角に、腰があたった。書類が、何枚か、床に落ちた。確定申告の、なにかの控えだった。数字の並んだ紙を見ると、わたしは、どこにいても、つい読もうとする。読もうとして、首を反らしたら、そこにまた、唇が来た。

ベッドは、シングルだった。仕事場だから。ひとりで寝るためのベッドに、ふたりで倒れると、スプリングが、ぎし、と文句を言った。

シーツは、つめたかった。背中を下ろした瞬間、肩甲骨のあいだに、ひやりと吸いついた。その上から、あの人の体温がかぶさってくる。冷たいのと熱いのに挟まれて、体のほうが、先にあきらめた。

あの人のワイシャツは、わたしが脱がせた。ボタンは、八つ。こっちは、さっさと外した。仕返しだ。胸板は、思ったより白かった。腹は、ゆるく、ベルトの跡が赤く残っていた。その跡を、指でなぞった。この人も、一日、何かに締めつけられて生きているのだ。と、思ってやる義理は、ないのだけれど。

肌が、重なる。

胸と胸のあいだで、汗が、うすい膜になる。息をするたびに、その膜が、ふくらんで、しぼむ。あの人のてのひらが、わたしの脇腹を、あばらの段をひとつずつ数えるように、のぼってくる。腹の肉のところで、すこし、ゆっくりになった。四十八キロのころにはなかった、やわらかいところだ。ゆっくりにならなくていい、と思った。思っただけで、言わなかった。

背中に腕が回って、背骨のくぼみを、指が降りていった。首のつけ根から、腰の手前まで。その谷の底に、汗が溜まっていて、指が、ぬるりと滑った。滑ったところから、熱が、腰の奥のほうへ、じわじわ降りていく。

身体の奥で、何かが、ゆるんでいくのが分かった。冷蔵庫から出したバターが、台所の灯りの下で、輪郭からとけていく、あの遅さで。とけたところが、あたたかく、とろりと、満ちていく。自分でも、恥ずかしいくらいだった。恥ずかしいと思うあいだにも、満ちていった。

膝の裏に、あの人の手が入った。汗が溜まっていた。そこを持ち上げられると、脚が、勝手にひらいた。太ももの内側に、あの人の髭の剃り残しが、ざらりと当たった。朝剃って、夜にはもう伸びている、五十すぎの男の顎だ。そのざらつきが、くすぐったくて、くすぐったいのとは、ちがうものになっていった。

息が、浅くなる。

窓の外を、電車が通った。この時間に走るのは、回送だけだ。誰も乗せていない、灯りだけの電車が、カーテンの隙間に、白い帯をすべらせていった。天井に、ふたりぶんの影が、一瞬だけ、くっきり映った。ひとつのかたまりみたいだった。

あの人が、わたしのなかへ、ゆっくり、満ちてきた。

息が止まった。止まったまま、胸だけが、上下した。あの人は、すぐには動かなかった。わたしの額に、額をつけて、目をつむっていた。眼鏡は、いつのまにか、枕もとに置かれていた。度の強いレンズが、天井の灯りを、ちいさく歪めて映していた。

最初は、揺れるともいえないくらいだった。寄せて、ひいて。ひくたびに、ふたりのあいだで、汗が、ちいさく鳴る。わたしは、あの人の肩に、てのひらを置いた。肩の骨が、思っていたより、細かった。

すこしずつ、波が、高くなる。

シーツが、背中の下で、よれていく。よれたしわが、腰骨のところに食いこんで、それが痛くて、痛いのが、遠くなっていく。脚が、あの人の腰に、絡んでいた。かかとで、背中の下のほうを、引き寄せていた。そうしようと思ったおぼえは、ない。体が、勝手に、潮が満ちるほうへ、寄っていった。ぬかるんだ岸に、波がひとつ来るたび、足もとの砂が、すこしずつ、持っていかれる。

声が、漏れた。低い。かすれている。煙草の名残の声で、客には「いい声だね」と言われる声で、それがこんなふうに、ほどけていくのを、わたしは、自分の耳で聞いていた。聞きたくなかった。

あの人の指が、わたしの指に、絡んだ。シーツの上で、関節と関節が、ぎゅっと、噛みあう。汗で滑って、もう一回、握りなおす。その指に、指輪の、硬いところがあった。

あった。ずっと。

そのときだった。

床の上で、スラックスのポケットが、震えた。ぶう、ぶう、と、低く。ベッドの脚に響いて、マットレス越しに、わたしの背骨まで届いた。

あの人が、止まった。

止まって、それから、ゆっくり、首だけを、そっちへ向けた。ポケットから半分のぞいた画面が、青白く光っていた。ここからでも、読めた。漢字で、三文字。ちゃんとした名前だった。ちゃんとした、と書くのは、わたしの性格の悪さで、でも、ほんとうに、ちゃんとしていた。親がよく考えてつけた名前だ。

二時十八分。

この時間に、妻が夫に電話をかける理由を、わたしは、店で、いくつも聞いてきた。寝つけない。子どもが熱を出した。ただ、なんとなく。それから、ぜんぶ知っていて、かける。どれだったのかは、知らない。知らなくていい。

震えは、七回で止まった。数えていた。わたしは、ボトルの残りを、目で数えるのが仕事だ。

止まったあと、部屋が、しんとした。エアコンの、ちいさな音だけ。あの人の汗が、わたしの胸の上で、急に冷たくなった。重さだけが、残っていた。さっきまで、熱だったものが、ただの体重になった。六十何キロの、他人の、体重。

ばかみたいだ、と思った。

ほんとうに、ばかみたいだった。三十六にもなって、色の抜けた下着で、他人の仕事場のシングルベッドで、他人の夫の下で、他人の妻の着信を、数えている。父の通夜に来た女の、焼香の手を、ふいに思い出した。震えていた手。あのとき、わたしは、あの人をかわいそうだと思った。いまのわたしを、母が見たら、何と言うだろう。何も言わないんだよね、たぶん。あの人は、いつも、何も言わない。

「帰る?」と、わたしが聞いた。

あの人は、答えなかった。かわりに、わたしの髪に、顔をうずめた。額のところで、息を一回、ふるわせた。

ずるい、と思った。答えないのも、ずるい。うずめるのも、ずるい。

それで、続けてしまったわたしが、いちばん、ずるい。

二度目の波は、ゆっくり戻ってきた。一回冷えた肌は、さっきよりも、熱をよく覚えた。冷めたぶんだけ、温度の差が、はっきりする。湯船に入る前に、足先が冷えていると、湯がやけに熱く感じる、あれと同じだ。と、いま書いてみて、色気のない例えだと思う。でも、ほんとうに、そうだった。

あの人は、さっきより、すこし乱暴だった。乱暴、と言うと言いすぎで、ためらいを、どこかへ置いてきた動き方だった。電話のぶんを、取りかえすみたいに。わたしは、その背中に、爪を立てた。立ててから、あ、と思った。跡が残る。この背中は、ちゃんとした名前の人が、洗濯物をたたむときに見るかもしれない背中だ。

爪を、ひっこめた。

ひっこめたかわりに、てのひらで、肩甲骨の下を、強くつかんだ。跡の残らない強さで。そういう加減ができてしまう自分が、心の底から、いやだった。いやだと思いながら、つかんでいた。

汗が、あの人の顎から、わたしの喉のくぼみに、落ちた。ひと粒。それが首の横を、耳のほうへ、ゆっくり伝っていく。目尻の涙と、まじった。どっちがどっちか、もう分からない。

波が、詰まってくる。

ベッドが、壁に当たって、ことん、ことん、と鳴った。隣の部屋に、誰か住んでいるのかどうか、わたしは知らない。知らないまま、声が、高くなった。下唇を噛んだ。噛んでも、鼻の奥から、細く漏れた。あの人が、わたしの名前を呼んだ。店での名前でも、本名でもない、あの人だけが使う、ちぢめた呼び方で。

腰の奥の、いちばん深いところに、熱が、集まっていく。満ちて、満ちて、もう一杯も入らないグラスに、それでも注がれていく酒のように、表面が、ふるふると、盛りあがっていく。こぼれる、と思った。思ったときには、もう、目の前が、白く弾けていた。

背が、反った。

息が、ない。脚の先まで、勝手に、ふるえた。かかとが、シーツを、何度も蹴った。てのひらのなかで、あの人の背中が、ぎゅっと固くなった。

そこで、わたしは、ひとつだけ、決めた。

決めたのは、わたしで、あの人ではない。あの人は、何も聞かなかったし、わたしも、何も言わなかった。用意は、ふたりとも、なかった。あの人は、たぶん、わたしがどうにかするだろうと思っていた。家でも、そうやって、いろんなことを、誰かにどうにかしてもらってきた人だ。わたしは、それを分かっていて、黙っていた。黙っていた理由は、あとで書く。書けたら。

あの人の体が、わたしの上で、何度か、深く、ふるえた。ふるえるたびに、喉の奥で、ちいさな音がした。それから、ぜんぶの重さが、わたしの胸に、落ちてきた。

息が、押し出された。

重かった。重いのが、ほんの一瞬だけ、よかった。このまま、この重さがわたしの部屋にあったら、と思った。猫の爪とぎと、古着のラックと、伏せた文庫のあいだに、この重さが、毎晩あったら。

一瞬だけだ。数えたら、三秒くらい。

急に、眠くなった。終わったあとは、体がそういうふうにできているらしい、と、どこかで読んだことがある。幸せな気分になるものが、頭のなかに出ているのだとか。あの人は、もう、半分眠っていた。わたしの肩に、額をのせたまま、息が、だんだん長くなっていく。

わたしは、眠らなかった。

かわりに、勘定をした。

閉店のあとの、レジ締めの癖だ。数字を合わせないと、眠れない。天井を見ながら、頭のなかで、今夜の伝票を一枚ずつ、めくっていった。

コンビニのガム、百五十円。店から坂の上までの、濡れた髪と、ストッキング一足。口紅、たぶん、ふた塗りぶん。帰りのタクシー、深夜料金で、二千円ちょっと。それから、あしたの、昼。

それで、合計。

わたしの値段は、いくらだったんだろう。

あの人は、一円も払っていない。払われたら、殴っていたと思う。でも、勘定すると、わたしだけが、ぜんぶ払っている。セット料金もなし、ボトルも入れない、いちばん安い客のくせに、いちばん長く居座る。先代が生きていたら、「そういう客は、二回目から断るの」と言っただろう。先代は、わたしのことも、そういう目で見ていたかもしれない。

それだけの話。

あの人の腕を、そっと持ち上げて、ベッドを抜けた。シーツが、背中から、粘るように、はがれた。床に、確定申告の控えが散らばっていた。拾って、机に戻した。順番は、たぶん、合っていない。合っていないことに、あの人は、あした気づくだろう。気づいて、少しだけ、わたしのことを考えるだろう。それくらいは、残してやる。

洗面所で、顔を洗った。鏡に映った首すじが、まだらに赤かった。口紅は、ほとんど残っていなかった。洗面台の、コップのなかに、歯ブラシが一本だけ立っていた。一本だけ、というところに、救われるのも、腹が立つのも、両方だった。

体のほうは、タオルを濡らして、拭った。熱いお湯が出るまで、ずいぶん待った。古いマンションの給湯器は、うちのと同じで、気まぐれだ。拭いながら、指で、日にちを数えた。前のが始まった日から、きょうまで。十四、十五。数えなおして、また、十五。

悪くない数字ではない。

部屋に戻ると、あの人の携帯が、床で、もう一回だけ、光った。今度は、メッセージだった。読まなかった。読まないことに、ずいぶん力がいった。

ワンピースのボタンを、十二個、ひとりで留めた。かかった時間は、外されたときの、半分もなかった。

帰りは、タクシーを使わなかった。線路ぞいを、歩いた。雨は、止んでいた。止んだあとの道は、街灯をぜんぶ、二倍にして映していた。

途中の踏切で、回送電車が、もう一本、通った。窓の灯りだけがついていて、座席には、誰もいない。どこかへ向かってはいるけれど、誰も乗せないし、どこにも停まらない。運転士さんだけが、前を見ていた。

いまのわたしたちだ、と思った。思って、そういう比喩を、ちゃんと思いつく自分に、すこしうんざりした。

四階まで階段をのぼって、部屋に入ると、ぬかが、玄関で、ちいさく鳴いた。知らない洗剤の匂いがするのか、わたしの足首を、しばらく、くんくん嗅いでいた。それから、くしゃみをして、寝室に戻っていった。

あなたは正しい。

きょうの昼、店に行く前に、駅前のドラッグストアに寄った。

二月から、薬局でも、処方箋なしで買えるようになった、というのは、店でかのこさんみたいな昔の同業の女の人たちが、カウンターで話していたので、知っていた。知っていたのに、カウンターの奥の、薬剤師さんのいる窓口の前で、三分くらい、ハンドクリームの棚を見ていた。ハンドクリームは、べつに、要らなかった。

薬剤師さんは、わたしより、すこし年下の女の人だった。白衣の胸ポケットに、ボールペンが三本。小さな部屋に通されて、いくつか、質問された。いつか。何時ごろか。前の生理はいつか。わたしは、手帳を開いて、答えた。店の客の言葉を書きとめる手帳に、自分の周期を、小さく書いている。客の言葉より、こっちのほうが、正確だ。

七千いくら、だった。レシートは、もらった。もらって、どうするんだろう、と思いながら、もらった。

その場で、飲んだ。小さな錠剤一つと、紙コップの水。薬剤師さんは、わたしが飲みこむのを、ちゃんと見ていた。見るのが決まりなのだそうだ。そうやって、誰かに、まっすぐ見届けてもらうのは、ずいぶんひさしぶりだった。喉が、ごくりと鳴った。ゆうべ、指で確かめられた喉だ。

あの人には、言っていない。言わない。

ゆうべ、黙っていた理由を、さっき書くと言った。書けるかな。どうだろう。

たぶん、試したかったんだよね。あの人が、いつ、何か言うか。ほんの少しでも、わたしの人生に、自分の重さを置いていく覚悟があるのか。なかった。最後まで、なかった。それを確かめて、わたしは、自分で、ひとつ線を引いた。あの人の家にも、わたしの部屋にも、なにも残さない。残すかどうかを決めるのは、わたしで、それだけは、譲らない。

格好いい言い方をすると、そうなる。格好わるい言い方をすると、七千いくらで、ゆうべのわたしの弱さを、買い戻した。

夕方、鞄の底から、きのうのレシートの束を出して、先代の甥に渡した。輪ゴムでとめた、木曜の売上。一円も狂っていない。甥は、ぱらぱらとめくって、「いいですね」と言った。いいですね、だけ。口は出さないけれど、数字は見る人だ。

ドラッグストアのレシートは、財布に入れたままにしてある。

ゆうべの伝票は、あれで締めた。ガムと、タクシー代はなしで、口紅ふた塗りと、七千いくら。それから、天井を見ていた三秒ぶんの、なにか。

最後のは、値段がつかないので、帳簿には載せない。

あの人からは、昼すぎに、一通だけ来ていた。「書類、片づけてくれてありがとう」。順番が狂っていたことには、触れていなかった。

まあ、そういうことだ。

返事は、また、遅らせている。

タグ: 夜 / 雑記

夜雑記

PR 人気の商品(広告)

Supported by 楽天ウェブサービス

コメント

コメントはありません。

コメントの投稿にはユーザー登録(個人番号による本人確認)が必要です。

関連する記事

« 手が覚えていたシーツの皺 »

カテゴリ・タグ

カテゴリ日記・雑記(175) 季節・行事(273) 趣味・おでかけ(695) 家族・子育て(628) 暮らし・家計(185) 仕事・学校(452) 動物・ペット(187) 体と健康(224) 世の中のできごと(18) 食・料理(182)
タグ雑記家族日常仕事母行事体調実家息子猫ごはん職場夫冬近所散歩育児長女夏秋節約日記日曜日失敗畑犬長男おでかけ休み休日