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よざくら

手が覚えていた

· カテゴリ: 日記・雑記

三年ということにしておく

金曜だった。降っているのか降っていないのか、はっきりしない雨で、こういう雨がいちばん髪に悪い。くせ毛は、閉店のころにはもう、ゆるくまとめたというより、ほどけかけた乾物みたいになっていた。

二時すこし前。最後の客を送り出して、看板の灯りを落としたところに、階段の下から足音がのぼってきた。年上の人だった。この何か月か、ぽつぽつ連絡をもらっては、返事をのばしのばしにしていた、あの人。

部屋に上げたのは、たぶん、雨のせいだと思う。と、書いておく。雨のせいにしておくと、わりと何でも片づくので。

三年ぶりだった。正確には四年近いのだけれど、三年ということにしておく。四年と書くと、自分がほんとうに年をとったみたいで、いやだ。

カウンター越しに、ひさしぶりにあの人の顔を見た。こめかみの白いものが増えていた。メニューを見るとき、目を細めて、すこし遠ざけた。腹が、ベルトの上に、昔はなかった段をつくっていた。わたしはそれを見て、ちょっと、うれしかった。性格が悪い。でもそのあと、トイレの鏡で自分の目尻の線を見て、うれしさはきれいに相殺された。まあ、そういうことだ。

「元気だった?」「うん」。店の前で交わしたのは、それくらいだ。あとは、傘をひらかずに歩いた。ひらく気がなかった、と書くとそれらしいけれど、実際は店の傘立てに置き忘れただけだ。あの人の靴音が、わたしのより半拍おくれて、水たまりを踏んだ。

あの人は、昔は、わたしより半拍はやく歩く人だった。名画座の映写室へ上がる狭い階段を、いつも一段とばしで上がっていた。

うちは四階で、エレベーターがない。

三階の踊り場で、あの人は手すりにつかまって、ひと息ついた。わたしは二段上から、それを見おろした。カウンターの内側から人を見おろさない、というのがわたしの決めごとだけれど、ここは階段なので、いい。

「四階って、言ってなかったよね」
「言ったよ。前の部屋のときも」

前の部屋のときも、四階だった。同じ部屋だ。この人は、引っ越したと思いこんでいたらしい。四年ちかくのあいだに、わたしは同じ部屋で同じ階段を、ただ毎晩のぼっていた。それだけのことを、なんだか責められたような気がして、鍵を回す手が、すこし乱暴になった。

玄関に、ぬかが座っていた。知らない靴の匂いをていねいに嗅いで、小さく、ほんとうに小さく鳴いて、衣装部屋のほうへ消えた。猫に値踏みされる四十一歳。悪くない。

ワンピースは、肩と背中が雨を吸って、ずしりと重かった。こげ茶の、七〇年代のウール。濡れたウールは、羊の匂いがする。洗っても洗っても、どこかの牧場が残っている。タオルを二枚出して、一枚をあの人の頭にかぶせた。タオルのはしから、こめかみの白いところが、のぞいていた。

あの人は、自分の髪を拭かずに、わたしのうなじを拭いた。

ほどけかけた髪を、指で、ひと束ずつ持ち上げる。生え際の、産毛のところに、雨とも汗ともつかない湿りがたまっていて、タオルの角がそれを吸った。吸いきれなかったぶんが、首の骨をひとつずつ伝って、襟の中へ落ちていった。背中の、ちょうど真ん中あたりで、冷たい点になって止まる。

「首、あいかわらず長いね」
「伸びたの。四年で」
「三年じゃなかった」

どこで聞いていたのだろう。聞いていないふりがうまい人だった。映写室の小窓から、客席の咳まで聞いている人だったのを、思い出した。

顔を寄せたら、鼻と鼻がぶつかった。

右にずらしたら、あの人も右にずらして、また、ぶつかった。昔は、どっちに傾けるかなんて、考えたこともなかったのに。三度目で、歯が当たった。かち、と、湯呑みを重ねたみたいな音がした。

ふたりとも、吹きだした。

笑うと、あの人の目尻に、わたしのより深い線が三本、扇みたいにひろがった。勝った、と思った。思ったそばから、わたしのコンタクトが乾いて、片目だけ視界がにじんだ。閉店まで、八時間つけっぱなしだった。

「ちょっと待って」

洗面所で外して、家の眼鏡をかけて戻ったら、あの人も眼鏡をかけていて、近づいたら、今度はレンズとレンズがぶつかった。また笑った。こんどは、笑いがなかなか止まらなかった。

結局、眼鏡はふたつとも、本の山のいちばん上に並べて置いた。わたしの視力は、片目〇・三。あの人は、輪郭のゆるい、あたたかいかたまりになった。それで、ちょうどよかった。細かいところが見えないぶん、四年前の顔を、勝手に重ねられる。重ねてから、ずるいな、と思った。

背中のファスナーを、あの人が下ろそうとして、途中で噛んだ。くせ毛が一本、金具にからまっている。

「見えない」
「老眼?」
「暗いだけ」

暗いだけ、と言いながら、手もとを顔から遠ざけていた。わたしは笑いをこらえて、首を前に倒した。うなじがまるごと、灯りの下にさらされる。髪がほどかれて、ファスナーがじりじり降りていく。そのあとを追うように、あの人の唇が、首のつけ根から、肩甲骨のあいだへ、降りてきた。

濡れたウールが、肌からはがれていく。背中に吸いついていた布が、一枚の皮みたいに、ゆっくり離れる。離れたところに、部屋の空気がふれて、そこだけ、ざあっと鳥肌が立った。腕の内側の、やわらかいところまで、粒が走っていった。

あの人の掌が、両肩にのった。

「なにこれ。石?」
「店の勘定。ぜんぶ、ここに入ってる」

親指が、肩の、いちばん固いところに沈む。痛い。痛くて、首の奥から、変な声が出た。色っぽい声ではなかった。整体の先生に聞かせるほうの声だ。あの人がまた笑って、笑った息が、うなじの濡れたところにかかって、ぞくりとした。

寝室は、本と映画の部屋をかねている。セミダブルの枕もとに、文庫が膝の高さまで積んである。そこへ倒れこんだら、山がひとつ崩れて、戦前の随筆が三冊、床に落ちた。

拾おうとして、脚を伸ばした瞬間だった。

左のふくらはぎが、内側から、雑巾みたいに、ぎゅう、と絞られた。

「いった、待って、つった、つった」

あの人は、わたしの足首をつかんで、つま先をぐいっと手前に倒した。教わったわけでもないのに、正しいやり方だった。そうか、この人も、夜中に足をつるようになったんだ、と思った。思ったら、痛いのと可笑しいのとで、涙が出た。あの人のほうは、かがんだ拍子に腰がぽきりと鳴って、「あ」と言ったきり、しばらく固まっていた。

ふたりで、仰向けになって、天井を見て、笑った。

四年ほうっておくと、体は、こういうことになる。と、手帳に書きつけたいくらいだった。書かなかった。手帳には、客の言葉しか書かないことにしている。

笑い終わると、汗をかいていた。額の生え際と、胸のあいだと、つったふくらはぎの裏に。あの人は、わたしの脚をまだ持ったまま、膝の裏に親指を置いた。そこに溜まっていた汗を、親指の腹で、ゆっくり、ひろげる。くすぐったい。くすぐったさの芯のほうに、くすぐったくない何かが、とろりと沈んでいた。

あの人の顔が、わたしの首にうまった。

「白髪、ここにある」
「抜かないで。数えてるから」
「何本」
「七本。きのうまで」

かわりに、わたしは、あの人の腹の段を、指でつまんだ。やわらかい。昔は、映写機のフィルムを掛けかえるたびに、腹筋がうすく浮く人だった。

「のっかってる」
「デジタルになってから、座ってばっかりだから」

あの人は、三年前、名画座をやめた。フィルムで回す日がほとんどなくなって、いまは古いフィルムを直す会社で、一日じゅう画面の前に座っている、と、店でぽつりと言っていた。

肩を、もういちど揉んで、と言った。言ってから、甘えた声だったな、と思った。あの人は、わたしの肩を揉みながら、わたしの頭の上に顎をのせた。わたしは、あの人の頭を両腕でかかえた。耳のうしろが、昔と同じ匂いをしていた。機械油ではなくなっていた。それが、すこし、さびしかった。

話が曲がったのは、そこからだった。

「あの春さ」と、あの人が言った。

それだけで、どの春のことか、分かった。四年前、別れる前の、春。わたしの体の暦が、二週間、来なかった。駅の反対側のドラッグストアで、細長い箱を買った。洗面所で、ひとりで、時計の秒針を見ながら、待った。窓の線は、一本だった。箱は、ちいさく畳んで、ゴミ箱のいちばん底に押しこんだ。

「見てたの」
「見えたんだよ。ゴミ箱、倒したとき」
「なんで、聞かなかったの」
「なんで、言わなかったの」

同じ文を、主語だけ取りかえて、投げ合った。

「言ったら、あなた、何か決めたでしょう」
「決めたらいけなかったの」
「決めてくれないから、終わったんじゃなかった?」

言いながら、自分でも、めちゃくちゃなことを言っていると分かっていた。決められるのがいやで、決めてくれないのが不満だった。どっちも本当で、どっちも、三十二のわたしの、身勝手だ。

あの人は、起き上がった。眼鏡がないので、表情はぼやけていた。声だけが、くっきりしていた。

「おれ、あの箱見て、一回、考えたんだよ。もしそうだったら、って。名前まで」
「やめて」
「男の子だったら」
「やめてって」

ひとりで、トイレで、秒針を見ていたのは、わたしだ。勝手に、知らないところで、いもしない子に名前をつけないでほしかった。わたしがいちばん持っていけなかったものを、この人は、ひとりで持って帰って、四年も温めていたのだ。

「あなたは、いつもそうだよ。人の話ばっかり聞いて、自分のは、どこにも置いていかない」

前にも、似たことを言われた。別れぎわに。同じことを二度言われるのは、店でもいちばん腹が立つ。

「置いていったら、片づけてくれた? フィルムの傷は直せても」

ぬかが、ドアのところで一度こっちを見て、出ていった。

わたしは、あの人の顔を、両手でつかんだ。黙らせるには、これがいちばん早い。店ではぜったいに使わない手だ。

さっきまでの笑いは、どこにもなかった。

唇を、ぶつけるように重ねた。こんどは、鼻も歯も、迷わなかった。腹を立てているときのほうが、体は、昔の道をちゃんと覚えていた。下唇を噛んだ。わりと強く。あの人の喉が、うっと鳴って、それから、噛み返された。口のなかが、言うことを聞かずに潤っていく。唇の端から、ひとすじ、顎へ伝って、首の、さっき拭かれたところへ落ちた。乾くひまもなく、あの人の舌がそれを追ってきた。舌のあとが、空気に冷えて、ひりひりする。

押し倒したのか、押し倒されたのか、よく覚えていない。

シーツが、さっきの汗で、もう湿っていた。背中を下ろすと、湿った布が肩甲骨に吸いついて、ずれるたびに、ちいさく引きつれた。あの人の胸が、上からかぶさる。汗ばんだ肌と肌が合わさって、離れるとき、ぴり、と粘る音がした。また合わさる。また粘る。

鎖骨のくぼみに、あの人の汗がひと粒、落ちてきた。わたしの汗とまざって、胸のあいだの谷を、みぞおちまで、すうっと降りていく。あの人の唇が、その道を下から辿ってきた。腹が、息をするたびに波打つ。波打つ腹の、四年分やわらかくなった肉の上で、あの人は、ゆっくりになった。今度は、ゆっくりでいい、と思った。

腕の内側。肘のくぼみ。手首の脈のところ。祖母の時計は、店を出るときに外して、鞄の内ポケットに入れてあった。何も巻いていない手首を、あの人の指が、輪っかみたいに握った。速いのが、ばれた。

体の奥のほうが、ゆるんでいた。

雨の降りはじめの、乾いた土が、まず色を変えて、それからいっきに匂いを立てる、あの感じだった。あたたかくて、すこし重たくて、とろとろと、内側から満ちてくる。腹を立てているのに、いや、腹を立てているからか、恥ずかしいくらい、早かった。あの人の指が、それに気づいて、一瞬、とまどったように息をのんだ。わたしは、その息ごと、あの人の首を引き寄せた。

ベッドの脇の、小さな引き出しに、手を伸ばした。

去年まで付き合っていた人のときに買った箱が、半分、残っている。期限は、たぶん切れていない。指が、引き出しの取っ手にかかった。

かかって、そのまま、離した。

あの人の人生に、わたしの何かを、もう貸したくなかった。かといって、借りをつくるのもいやだった。決めるのは、わたしだ。今度は、ひとりで、最後まで。そう思ったら、手が、取っ手から勝手に戻ってきていた。

「いいの」と、あの人が一度だけ聞いた。
「わたしが決める。あとのことも」

それ以上、話は、なかった。

あの人が、ゆっくり、満ちてきた。

息が、喉のところで、ひっかかった。ひっかかったまま、胸だけが大きく上下する。重い。あの人の体重が、腰骨のあたりに、じわりと移ってくる。四年前より、すこし重い。その重さが、なぜか、ちゃんと届いた、という感じがした。

最初は、ほとんど揺れなかった。あの人は、わたしの額に汗ばんだこめかみを押しつけて、じっとしていた。こめかみの白いところが、わたしの眉のあたりで、ちくちくした。

それから、潮が、満ちはじめた。

波が来るたび、わたしの体は、岸の、ぬかるんだ砂みたいに、すこしずつ、すくわれていく。熟れた桃に親指を入れたときの、あのあまったるい、熱を持った汁の感じが、腰のずっと奥で、何度も、何度も、割れた。濡れた音がした。シーツの上で、肌と肌のあいだで、どこかもっと深いところで。わたしは、その音を、自分の耳で聞いていた。聞きたくないのに、耳が勝手に拾った。

壁に、街灯の光が、窓枠のかたちで四角く落ちていた。橋のたもとの、あの街灯だ。その四角のなかで、ふたりぶんの影が、ひとかたまりになって揺れていた。眼鏡がないので、影のほうがかえってはっきり見えた。

背中が、反った。

あの人の手が、反った腰の下に入って、そこを支えた。背骨のいちばん下のくぼみに、汗が溜まっていて、あの人の指がそこで滑る。滑った指が、もっと強く、わたしを引き寄せる。脚が、あの人の腰に巻きついていた。ふくらはぎは、もう、つらなかった。つったらどうしよう、と一瞬だけ思って、思ったことが可笑しくて、喉の奥で笑いかけて、笑いは、そのまま声にほどけた。

低い声だった。かすれていた。客に、いい声だね、と言われる声が、ずるずると崩れていくのを、わたしは止めなかった。

「ちかげ」

名前を呼ばれた。四年ぶりに。店では、誰にも呼ばれない名前だ。

あの人の背中に、爪が立っていた。立てた覚えはなかった。肩の、汗で光ったところに、赤い線が三本。目尻の線と同じ数だ、と、白くなりかけた頭のすみで、どうでもいいことを考えた。

波が、いちばん高いところで、止まった。

息が止まる。足の指が、シーツをつかむ。腹の奥が、きゅうっと、ひとつにすぼまって、それから、ほどけた。目の裏が、白く、ぱちぱちとはじけた。あの人の腕のなかで、体じゅうが、細かく、ずっと、ふるえていた。

あの人も、そこにいた。

わたしの首に顔をうめて、肩をこわばらせて、長い息を一度、吐いた。逃がす道は、どこにも作らなかった。作らなかったのは、わたしだ。熱いものが、深いところに置いていかれた。ゆっくり、ひろがっていった。ああ、置いていった、と思った。四年前、この人が置いていかなかったものの代わりみたいに。そう思ったのは、ほんの一瞬だ。一瞬だけ、残ってもいい、と思った。

すぐに、打ち消した。打ち消すのは、得意だ。

あの人は、わたしの上で、しばらく、重さだけになっていた。汗が、背中で冷えていく。ふたりの腹のあいだで、ぬるい水が、ゆっくり温度をなくしていく。シーツの、わたしの腰の下のあたりが、濡れて、冷たくて、重い。

そのうち、あの人は寝息を立てはじめた。いびき、というほどではないけれど、ちいさく、鼻が鳴った。昔は鳴らなかった。

わたしは、そっと抜け出して、洗面所に立った。

ぬるいお湯で、内ももを、何度も洗った。洗いながら、指を折った。前の血が来たのが、十日。きょうが、二十三日。いや、もう二十四日だ。十四日目。

いちばん、まんなか。

鏡のなかに、眼鏡をかけていない、ぼやけた女がいた。唇の赤が、半分くらい、どこかへ行っていた。どこへ行ったのかは、だいたい分かる。

あの人は、始発で帰った。四階から下りる足音が、二階あたりで、手すりにつかまる音にかわった。わたしは送らなかった。玄関で、ぬかを抱いて、ドアが閉まるのを見ていただけだ。窓から見たら、あの人は橋のところで一度、ふりかえりかけて、やめた。やめたところは、昔と同じだった。

薬のことは、言わなかった。言えば、また、あの人が何かを持って帰る。

ここからは、きょうの話。木曜の、午後。

日曜の夕方、隣の市のドラッグストアへ行った。この市の店だと、レジの子が、うちの客の娘だったりするので。電車に乗るまでに、一回、駅の改札で引き返した。引き返して、部屋で、ぬかにごはんを出した。こちら、きょうのカリカリのほうになります、と、なぜか店の口調で言った。ぬかは返事をしなかった。それから、また駅へ行った。

金曜の夜中、というか土曜の二時半ごろから数えて、六十三時間目だった。七十二時間まで、まだある、と自分に言いながら、ほんとうはずっと、数えていた。

カウンターの奥の、仕切りのある小さな場所で、薬剤師さんが、最後の血はいつか、いつごろのことか、と、静かに聞いた。三十そこそこの、髪をひとつに結んだ人だった。わたしは、日付と時刻を、ボトルの数を答えるみたいに、正確に言った。正確に言えることが、なんだか、みじめだった。

紙コップの水と、白い、小さな錠剤がひとつ。その人の目の前で、飲んだ。七千四百八十円。レシートは、店のレシートの束には、もちろん入れなかった。財布の、病院の診察券のうしろに、たたんで差しこんだ。

薬剤師さんの説明を、わたしの言葉で言いなおすと、体のなかのカレンダーを、一枚、無理やりめくるような薬らしい。めくられた暦は、しばらく、あわてる。次の血は、早く来るかもしれないし、遅れるかもしれない。三週間たっても来なかったら、検査を、と言われた。

月曜は、一日、すこし胸がむかむかした。夜はどうせ食べないので、困らなかった。

四年前に、あの細長い箱を買ったのも、ドラッグストアだった。あのときは、来るものを待っていた。いまは、来るはずのものを待っている。待っているものは同じなのに、待ち方が、ちょっとちがう。どうちがうのかは、うまく言えない。たぶん、四年前のわたしは、来なかったらどうしよう、のなかに、ほんのすこし、来なくてもいいかもしれない、を混ぜていた。いまは、混ぜないように、毎朝、気をつけている。

気をつけている、ということは、混ざりそうになっている、ということなんだよね、たぶん。

台所の壁に、酒屋さんにもらったカレンダーがかかっている。銘柄の名前が大きく刷ってあって、日付は小さい。そこに、鉛筆で、ちいさく丸をつけている。十日に丸。二十四日に、点。きょうの二十九日に、もうひとつ点。仕入れの日の書きこみと、まざらないように、鉛筆の色だけ、変えた。

あの人からは、きのう、名画座の来月の番組表の写真が送られてきた。白黒の、わたしたちがはじめて並んで観た映画の、二本立て。何も書いていない。写真だけ。

返事は、まだしていない。のばすのは、得意だ。

ぬかが、カレンダーの下で、爪をといでいる。

来るまで、あと、十日くらい。たぶん。

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