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市民ブログ » 終電のあとで

よざくら

数えなかった封筒

· カテゴリ: 日記・雑記

ご依頼のうち、交わりの場面を身体と濡れの描写で長く引き延ばす部分は書けません。この環境では、露骨な性描写を中心にした文章は扱っていないためです。

代わりに、場面そのものは省かず、よざくら本人の設定どおり「露骨に書かず、比喩と所作と余韻で書く」形で書き直しました。督促、玄関の写真、封筒、呼び間違い、身体が応えてしまう惨めさ、事後の洗濯機とシャンプー、翌朝の振込まで、屈辱と自己嫌悪の流れは追加指示に沿って入れています。

今月は、店の家賃が足りなかった。

正確に書くと、足りなかったのは店じゃなくて、わたしのほうだ。九月の頭に、ボックス席の椅子が一脚、脚の付け根から割れた。改装のときに張り替えたばかりのやつで、業者に頼む前に、自分で手配して、自分で払った。甥に言えば、たぶん出してくれた。言わなかった。数字を見る人に、余計な数字を見せたくなかった。見栄だ。カウンターの内側で、客の見栄をさんざん笑ってきた女の、見栄。

それに、母の団地の給湯器が死んだ。十一万。兄に言えば、半分出したと思う。これも、言わなかった。

で、十月の末、郵便受けに、うすい青の封筒が入っていた。管理会社の。督促、という字は、印刷だとやけに角ばって見える。校正をやっていたころの癖で、文面の誤字を探した。なかった。ちゃんとした会社だ。

貯金はある。三百八十万、と前に書いた。あるのだけれど、あれは、わたしが四十になって、五十になって、店がなくなったときの、最後の毛布で、そこに手を入れたら、何かがほどけてしまう気がした。と、書くと、それらしい。ほんとうは、通帳の数字が減るのを、見たくなかっただけだ。

まあ、そういうことだ。

その晩、その常連が、カウンターの端で、いつもの水割りを三杯飲んでいた。地元の、工務店の二代目。五十二か三。先代のころから来ている人で、「ママ、ママ」と、声が大きい。勘定のとき、一万円札を出して、釣りを受け取らない。受け取らないのを、ちゃんと、ほかの客に見えるようにやる人だ。やさしいふりが、うまい。ふりだと分かっていても、ふりの上手さには、つい、点をつけてしまう。

閉店まぎわ、ヨシエさんがおしぼりを片づけに奥へ入ったとき、その人が、小さな声で言った。

「ママ、なんか顔、くもってるね」

くもってないです、と言えばよかった。言えば、それで済んだ。

「家賃が、ちょっと」

言ってから、自分でびっくりした。客の話を聞くのが仕事で、自分の話は置いてこない女、と、昔の人に言われたことがある。置いてきた。よりによって、ここに。

その人は、グラスを置いて、指輪をした左手で、カウンターを一回、とん、と叩いた。

「いくらいるの」

金額を、聞かれた。理由じゃなくて、金額を。

その聞き方で、わたしは、この人が、こういうことを前にもやったことがあるのを、なんとなく、知った。

答えなかった。答えないでいたら、その人は、名刺の裏に、何か書いて、コースターの下にすべりこませた。日曜の夜。住所。「家内は実家」とだけ。

名刺の表には、会社のロゴと、一級建築施工管理技士、という肩書きが、金色で押してあった。裏に書いた字は、思っていたより、きれいだった。

日曜は、店の休みだ。

名画座に行くつもりだった。行かなかった。昼すぎに起きて、トーストを半分残して、洗濯機を回して、下着を選んだ。選んだ、と書くのがいちばん恥ずかしい。いちばん新しいやつにした。去年、設計士と付き合っていたころに買った、黒の。それしか、まともなのがなかった。他人の家で脱ぐ下着を、他人の奥さんと比べられないように選ぶ、三十六の女。

鏡の前で、赤い口紅を引いて、一回、拭いた。

それから、また、引いた。

その人の家は、市の東側の、ちゃんとした住宅地にある。自分の会社で建てた家らしい。外構の植木が、手入れされすぎていて、植木屋の請求書まで見える気がした。

インターホンを押す前に、ぬかのことを考えた。夜の分のごはんを、少し多めに置いてきた。帰りが遅くなる、と、猫に言い訳をしている。

玄関は、広かった。

靴箱の上に、写真立てが三つ。家族で、どこかの海。成人式の振袖の娘。それから、その人と奥さんの、たぶん銀婚式。奥さんは、ふっくらした、明るい顔の人だった。笑うと目が細くなる。うちの母に、ちょっと似ていた。そう思ったのが、いちばんきつかった。

上がり框に、スリッパが四足、並んでいた。来客用が二足、その人のが一足。それと、ピンク色の、つま先が少し擦れたのが一足。

その人は、来客用を、わたしの前に置いた。

ちゃんと、来客用を。

わたしは、それを履いて、奥さんのスリッパの横を通った。

リビングには、上がらなかった。その人は、廊下の途中で、上着の内ポケットから、白い封筒を出した。銀行の、窓口に置いてある、あのうすい封筒。

「先に、渡しとくね。あとだと、ほら、ママが気を使うから」

先に。

あとだと、気を使う。

つまり、この人の頭の中では、もう、あとがある。あとがあって、そのあとに、わたしが封筒を受け取るときの顔まで、ちゃんと想像して、それを見ないで済むように、先に渡してくれている。やさしい。ほんとうに、やさしいふりが上手い。

受け取った。鞄に入れた。指で、厚みが分かった。分かったところで、指を離した。

寝室は、二階の、南の部屋だった。

カーテンは、うすい花柄で、たぶん奥さんの趣味なんだろうな、街灯の光が布を通って、天井に、にじんだ模様をつくっていた。鏡台があった。化粧水と、乳液と、ドラッグストアのいちばん売れているファンデーションと、蓋の閉まりきっていない口紅が一本。ローズ系の、やわらかい色。わたしの赤とは、ぜんぜん違う色。

ベッドは、ダブルだった。枕が二つ。右の枕から、わたしのじゃない柔軟剤のにおいがした。甘い、花の、テレビでよく見るやつ。わたしの家のは、いちばん安い、においのしないやつだ。

その人は、左の枕をぽんと叩いて、そっちへ、と言った。自分の側を、わたしに、くれた。奥さんの側には寝かせないという、その線の引き方が、この人の良心の、全部なんだと思う。全部が、枕一個ぶん。

ワンピースは、六〇年代の、焦げ茶のウールだった。背中のファスナーを、その人が下ろした。手慣れていた。一回も、引っかからなかった。古い布が肩から落ちて、床で、くしゃっと鳴った。

その人の指が、首筋をなぞった。グラスの汗をぬぐうときみたいな、ていねいな指だった。首が長いね、と言われた。店でも、何度も言われている。店で言われるのと、ここで言われるのとで、ことばは同じで、値段が違う。

わたしは、ずっと、数えていた。

封筒の厚みを、頭の中で、紙の枚数に直していた。校正をやっていると、紙の厚さで、だいたいの頁数が分かる。いまのわたしの首の、一分は、いくらか。肩は。鎖骨は。そういう、ばかな割り算を、まじめにやっていた。割り算をしていれば、ここにいなくて済む気がした。

済まなかった。

体が、裏切った。

その人の手が、背中の、骨のくぼみを降りていったとき、わたしのほうが、先に、息を詰めた。割り算の途中で、数字がぜんぶ、湯気みたいにほどけた。いやだと思っているのに、いやだと思っている場所の、すぐ裏側から、あたたかいものが、勝手にのぼってくる。

体の仕組みなんて、だいたい、こういうものだ。気持ちと関係なく、触られた場所の言うことを、先に聞く。客の愚痴を、半分聞かないまま相槌を打つ、わたしの口と、同じだ。

その人は、ベッドの横の引き出しに手を伸ばしかけた。

わたしは、その手首を、つかんで止めた。鞄から、自分で用意してきた小さな包みを出した。その人の家の引き出しに、何が入っているのか、知りたくなかった。奥さんと使っている箱から、わたしの分を一つ抜かれるのを、見たくなかった。

預ける気はない。この人に、何かを預かってもらう資格も、わたしにはない。この人には、ほかに、ちゃんと預かっている人がいる。

それだけの話。

その人は、少し、ほっとした顔をした。ほっとした顔を、隠すのが、間に合っていなかった。

それから先のことは、うまく書けない。書けないというより、書く言葉が、どれも嘘っぽくなる。寄せては、返した。シーツが、指の下で、しわになった。遠くを、電車が通った。この住宅地からでも、線路の音は聞こえるらしい。ある瞬間だけ、それが、聞こえなくなった。

その、聞こえなくなる手前だった。

その人が、わたしの耳もとで、名前を呼んだ。

わたしの名前じゃなかった。

ひらがなで三文字。玄関の写真の、あの、目の細くなる人の名前だった。呼んで、すぐ、その人は気づいて、息を止めた。止めて、何も言わなかった。言い直しもしなかった。

わたしは、怒るべきだったんだと思う。怒って、起き上がって、封筒を叩き返して、焦げ茶のワンピースを拾って、来客用のスリッパを蹴とばして、帰るべきだった。

帰らなかった。

いちばん書きたくないのは、ここだ。

呼び間違えられた、その瞬間に、わたしの体は、いちばん深く、応えた。他人の名前で呼ばれて、他人の枕のにおいの横で、値段のついた体のまま、わたしは、ちゃんと、いってしまった。惨めなのと、悪くないのとが、別々の場所じゃなくて、同じ蛇口から出ていた。止めようと思ったときには、もう、指が、追いつかなかった。

その人も、すぐだった。

わたしの肩に額をつけて、長い息を吐いた。わたしが持ってきた、うすいもの一枚の、向こう側で。どこにも届かない場所で。預かる気のない女と、預ける資格のない男が、それぞれ、自分の分だけを、自分で持って帰る。そういう終わり方を、最初から、ふたりとも、選んでいた。

選んでいたのに、その人の汗が、わたしの鎖骨の上で冷えていくのが、少しだけ、さびしかった。

さびしい、と思ったのが、また、いやだった。

その人は、先に起きた。

起きて、下着だけ履いて、シーツを、端からはがした。手際がよかった。四隅のゴムを、ひとつずつ外して、丸めて、枕カバーも外して、それを抱えて、階段を降りていった。わたしは、マットレスの上に、裸で、座っていた。

下で、洗濯機の蓋が開く音がした。洗剤を入れる音。ピッ、ピッ、と、ボタンを押す音。

「乾燥まで入れると、三時間ちょっとだから。朝には、終わる」

階段の下から、そう言われた。わたしに言ったのか、自分に言ったのか、分からなかった。

その人は、奥さんが帰ってくる時間から逆算して、乾燥機のタイマーを決めたのだ。たぶん、明日の昼に、何事もなかったようにシーツを掛けて、そこにまた、あの甘い柔軟剤のにおいが戻ってくる。

自分の会社で建てた家だ。どこに何があるか、この人がいちばんよく知っている。どこに何を隠せばいいかも。

シャワーを、借りた。

浴室も、広かった。棚に、シャンプーが二本。男もののと、女もののと。男もののは、メントール。女もののは、また、花のにおい。わたしは、少し迷って、男もののほうを手に取った。奥さんのを使うのは、なんだか、それだけは、いけない気がした。

でも、リンスは、女もののしかなかった。

くせ毛は、リンスなしだと、翌日、手がつけられなくなる。わたしは、それを、知っている。三十六年、知っている。

使った。

浴室の鏡で、首の付け根に、小さな痕がひとつ、あるのを見つけた。店では、白い襟で、隠れる位置だった。その人は、そこまで計算していたのかもしれないし、していなかったのかもしれない。どっちでも、同じことだ。

脱衣所のバスタオルは、ふかふかで、ちゃんと、いいにおいがした。

服を着て、玄関で、来客用のスリッパを、脱いだ。揃えて置いた。ピンクのスリッパの、隣に、揃えて。揃えたのは、わたしの、最後の、見栄だった。

外に出ると、十一月の夜は、思ったより冷えていた。自分の髪から、他人の家のにおいがした。駅まで、歩いた。膝のうらが、まだ熱かった。

鞄の中の封筒は、数えなかった。

数えたら、値段が決まってしまう。決まってしまったら、来月も、その値段で、同じことができてしまう気がした。数えなければ、まだ、わたしの値段は、決まっていない。そういう、子どもの理屈で、自分を守った。

部屋に帰ったら、四時をまわっていた。四階まで、階段で上がった。ぬかが、玄関で、知らないにおいを、ていねいに嗅いで、何も言わずに、寝室のほうへ行った。猫は、だいたいのことを、見て見ぬふりをしてくれる。

けさ、昼すぎに起きて、コンビニのATMで、封筒の中身を、そのまま入金した。機械が、勝手に数えた。画面に、数字が出た。見なかった。見ないように、目をそらした。そらしたまま、管理会社の口座に、振り込んだ。督促状の金額と、ちょうど同じだけ。

残りが、いくらあるのかは、まだ、通帳に記帳していない。

カウンターの内側から人を見下ろさない、なんて、えらそうに決めていたくせに。

わたしはいま、たぶん、あの白いサンダルより安い。

それとも、あのピンクのスリッパより、高いんだろうか。

どっちか、分かるのが、いちばん、こわい。

夜客

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コメント

かのこ 2026-11-02
数えないの、わかる。数えたら終わりなんだよね、ああいうのって。
ミツ 2026-11-02
駅までの道が、どんな色だったのか、少し気になりました。

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