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団地の台所
店が休みのまま二か月と少しが過ぎて、きょうは昼すぎに起きると、そのまま母の団地まで歩いた。小雨で、傘を差すほどでもないと思ったのに、いつのまにか肩だけがしっとり濡れていた。
母は玄関でマスクをしたままわたしを見て、「痩せた?」と言った。たぶん痩せてはいなくて、昼と夜があべこべになっているぶん、顔がむくんでいるだけなんだよね。そう説明しても母は聞かないまま、眼鏡の奥で目だけをすっと細くした。
台所に立つ背中は小さく、子どものころ夜中に見た背中と寸法はほとんど変わらないはずなのに、あのときは壁みたいに大きく見えたのだった。いまは手の甲が荒れていて、薬局のパートで使う消毒液のせいかな、と思ったけれど、聞かなかった。聞けば母は「大したことない」と言うに決まっているから。
兄のところの姪の話は、母のほうからたくさんした。二歳になってマスクをいやがるらしい。店の話はひとことも出ず、休業のことも、お金のことも、台所の湯気の向こうに置かれたままだった。聞かないという優しさが、この人のいちばん長い仕事なんだと思う。わたしはそれを少しずるいと思うけれど、ずるいのは、きっとわたしのほうだ。
帰り際、母は小さな容器をふたつ紙袋に入れて、「ご自宅用になります」と、なぜか店員みたいな言い方で笑った。袋はまだ温かくて、夜の散歩で橋の上に来たとき持ち替えたら、街灯の下で湯気みたいなものがふわっと上がった気がした。まあ、いいか。
母の背中のことは、たぶん、ずっと書けない。
コメント
よざくら
持ち替えたのは、片手が少し冷えたからだった。それでも温かさは、もう片方に残っていた。
持ち替えたのは、片手が少し冷えたからだった。それでも温かさは、もう片方に残っていた。
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橋の上で袋を持ち替える場面が好きです。あの温かさは、歩くあいだずっと手に残りそうですね。