三分で値をつけた女に、値をつけ返された
四千二百円
土曜の夜、黒猫橋の止まり木で、四十すぎの女に隣へ座られた。
氷の溶ける音がいちばん大きい店で、俺は指輪の跡と財布の厚みを見て、三分で値をつけた。今夜は俺が握る。そのつもりやった。
先に言うとくけど、その店の酒代は俺が自分で払うとる
ハイボール三杯で四千二百円
昔は座っとるだけで女が百万単位で落としていった席の、反対側や
数字は嘘つかん。今の俺は、払う側の人間や
店を出ると、空気が肌にまとわりついた
雨になる手前の、生ぬるくて重たい湿気
十月の終わりやのに、シャツの背中がもう張りついとる
女も俺も傘を持っとらん
女のヒールがコツ、コツ、と等間隔で鳴って、そこへ俺の革靴が不揃いに割りこむ
先月買うた靴で、まだ踵が硬い。見栄で買うた靴はだいたい足に合わん。俺の人生みたいなもんやで(笑)
信号に捕まって、女の香水が流れてきた
甘いくせに乾いた匂い
ストッキングの足首が細うて、骨の形まで分かる
見とったら右肩がじんわり痛んだ。ベンチで痛めたとこや。雨の前はいつもこれや
ポケットで携帯が一回震える
取り出さんでも分かる。母親や
妹が出ていってから、夜勤のない日の母親は、夜中に「ちゃんと食べてるか」だけ送ってきよる
食べとるわ。鶏むね百五十グラムとブロッコリー、七時に
返事はせえへんかった
路地を二つ折れて、どっかの換気扇が煮物の匂いを吐いとった
醤油と砂糖。団地の三階の、ばあちゃんの台所の匂いや
腹が鳴った。女に聞こえたかどうかは知らん。聞こえとったら笑うたはずやから、聞こえてへんかったことにしとく
女が取っとったんは、難浦の駅裏の、ビジネスホテルより一個上くらいのとこやった
最初から部屋取ってたんか、と聞いたら
「終電、気にすんの嫌やねん」
とだけ言うた
ええか、女が先に部屋を用意しとる時点で、主導権の話は半分終わっとる
俺はそれを知っとる。知っとって、エレベーターに乗った
七階の廊下。カーペットが足音を全部吸う
女が財布からカードキーを出す。編み込みの革の、角が白う擦れた財布
新しいのを何個も買う女より、一個を擦り切れるまで使う女のほうが、金は持っとる。これも数字の話や
ドアの前で、俺は一回、帰ろかと思た
これはほんまや。見栄で消そか迷たけど、書いとく
右肩がずきずきしとった。既読つけてへん母親のLINEが、ポケットの中で妙に重たかった
ほんで、計算した。この女と寝て、俺に何が残る
なんも残らん。俺が払たんはハイボール代だけで、向こうは部屋代。貸し借りでいうたら、俺が借りる側や
それが、気に入らんかった
「ほな、俺はこのへんで」
言うて、半歩、エレベーターのほうへ下がった
店でよう使た手や。帰るそぶりを見せて、相手に引き止めさせる。引き止めた側が、そのあとずっと払う
女は、引き止めへんかった
ドアを半分あけて、部屋の灯りを背中に受けたまま、
「ふうん。帰るんや、仁くん」
源氏名や
一年半、誰にも呼ばれてへん名前
「ユウトがな、よう言うてたで。仁さんは最後まで帰らへん人やって」
…あのガキの客やったんか
足が止まった。止まった時点で、もう負けや。分かっとる
分かっとって、部屋に入った。ここで帰ったら、ユウトより根性ないみたいになるやろ
そんな理由で女の部屋に入る男、アホやで。俺や(笑)
部屋は狭かった。ダブルのベッドと、窓際に小さい机と椅子
机の上に、読みかけの文庫と、胃薬の箱
胃薬は見んかったことにした。四十すぎの胃や。俺も最近、翌朝に酒が残る
女はヒールを脱いで、ストッキングのままカーペットに立った
背は俺の顎くらい。脱いだら、急に小さなった
「シャワー、先どうぞ」と言うたら
「ええわ。汗のままがええ」
この人、こういうの言い慣れとる
俺から寄った。最初は俺から行く。順番を握るのが大事なんや
女のうなじに、うしろから手を回した。生え際の短い毛がちくちくする。そこが汗でしっとりして、指先にくっついてきた
香水の下に、本人の匂いがあった。ちょっと酸っぱい、一日働いた皮膚の匂い。甘いほうより、こっちのほうがよっぽど本当のことを言うとる
親指で、耳の裏から首の筋をなぞって降りる
脈が、親指の腹にとん、とん、と当たる。速い
速いのを確かめて、俺は安心した。まだ俺の手は効く
ブラウスのボタンを、上から三つ外す
鎖骨が出る。四十すぎの鎖骨は、若い子みたいに浮いてへん。うすい脂の下に、骨の線が沈んどる
そのくぼみに汗が溜まっとって、唇をつけたら、塩の味がした
女の喉が、ごくっと動いた
それを唇で受けて、首の付け根まで、ゆっくり這わせて上がった
…ええか、女の体は、急かされると値踏みする。ゆっくりされると、値段を忘れる
店で教わったことやない。俺が自分で数えて覚えたことや
キスは、女のほうが深かった
唇を合わせただけやのに、すぐ向こうから来た。ウイスキーと、つまみのナッツの塩
下唇を噛まれた。けっこう強い。噛み返そうとしたら、もう離れとった
唇の端から、どっちのか分からん唾が細う垂れて、顎の先で冷えた
女がそれを親指で拭うて、拭うた指を、俺のシャツの胸で拭いた
三万八千円の黒シャツや。言わんかったけど
ベッドに倒れるとき、右肩がずきっとした
顔に出たらしい。女が「肩?」と聞いた
「ジムで。ベンチでな」
「無理せんとき。年やで」
二十九の男に、年て
腹が立ちながら、腹の肉を気にして、息を吸うて締めた。八十二キロ。去年より二キロ増えた。筋肉や。半分は
シャツを脱がされた。女の指が、胸板を、指の関節で叩くみたいに確かめていく
「ええ体してるやん」
「そら、金かけとるからな」
「ユウトのほうが細かったわ」
いらん情報や
女の背中に手を回して、ホックを片手で外す。これは特技や。一発で外れた
背骨のくぼみを、首の下から腰まで、指一本で降りていく。肩甲骨のあいだに汗が溜まっとって、指がぬるっと滑った
滑ったとこから、女の背中に、さあっと鳥肌が立った
腕の内側の、日に当たってへん白いとこに唇をつける。肘の内側。手首
女の左手には、薬指に、指輪の跡が残っとった
白うて、ちょっとへこんどる。外したん、最近やな
と、思た。思ただけで、聞かんかった
聞いたら、情の話になる。情は利息みたいなもんや。いっぺん借りたら、ずっと払わされる
肌と肌が合わさる
女の腹が、俺の腹の上で、息のたびに波打つ。汗で吸いついて、体をずらすと、ぺた、と小さく剥がれる音がする
エアコンの風が、剥がれたとこだけ冷やしていく
膝の裏に手を入れたら、そこも汗で湿っとった
太ももの内側を、掌でゆっくり上がる
女の息が浅なって、「…ん」と、喉の奥で鳴った
よし、と思た
ここまでは、全部、俺の段取りどおりやった
ほんで、女が言うた
「なあ。今、月なんぼで暮らしてんの」
俺の手が、太ももの途中で止まった
「ユウトが言うてたわ。仁さん、いちばんええときで月千百やったって。今は?」
「…なんの話や」
「振り込んでくれる子、何人おるん。二人? 三人?」
体が、正直に引いた
頭より先に、下のほうから冷えていった。血がすうっと引いていくのが、自分で分かった
さっきまで熱やった汗が、急に、ただの水になった
なんで知っとんねん
元客二人の振り込みのことは、店の誰にも言うてへん
…いや、ユウトなら知っとるか。あいつ、客の噂だけは早い
女は、もう一個足した
「三年前、どっかのお客さんの家族から、手紙来たんやろ」
手紙、と言うた
書面、とは言わんかった。その言い方の優しさが、いちばんえぐかった
俺は女から体を離して、仰向けになった
天井に、スプリンクラーの丸いのがついとった。しばらく、それ見とった
「…冷めたわ」
正直に言うた。そのほうが、まだ格好つくと思た
女は、笑わんかった
起き上がって、俺の腹の上に跨がった
ここからは、俺の夜やなかった
女は、ベッドの脇のバッグを片手で引き寄せて、小さい包みを一つ出した
用意してきとるんか
俺がいつも財布の札入れのいちばん奥に一枚だけ入れとるやつと、同じ銘柄やった
女は端を歯でちぎって、切れ端をシーツの上に吐いた
「あんたに預けといたら、あんたの都合で使うやろ。使わんとこもな」
…読まれとる
客と寝るときは、必ず自分で用意して、自分でつけて、自分で始末してきた
相手に何も残さんため。相手に、俺へ何も残させんため。それが俺の線引きやった
その線を、女が先に引いた。俺の線を、女の手で
女の両手が、俺の胸に置かれた。体重がかかる。右肩が痛い。言わんかった
「冷めたんやったら、温めたらええだけやん」
低い声やった。ボトルを入れる前に女が出す声やない。入れたあとに出す声や
女は、急がんかった
俺の首に唇をつけて、耳の下まで、舌の先で一本の線を引いた
線のあとが、エアコンの風で冷える。冷えたとこに、また息がかかる。熱い、冷たい、熱い
喉仏を、軽く歯で挟まれた。息が止まった
胸の真ん中を、汗の筋に沿って、指が降りていく
腹筋の段を、爪の先で一個ずつ数えられた。数え終わって、女が「六つか」と言うた
…数えるのは、俺の仕事やったんやで
体が、戻ってきた
腹の立つことに、ちゃんと戻ってきた
女が、ゆっくり沈んできた
眉がよって、息が一回、長う止まって、それから、ほどけた
熱かった。ぬかるんだ土に膝まで沈んでいくみたいな、逃げ場のない熱やった
…ここ、うまく書かれへん。うまく書こうとすると、なんか負けた気がする
女が、動いた
最初は、揺れてるんか揺れてへんのか分からんくらい。寄せて、引いて
引くたびに、俺の腹と女の腹のあいだで、汗が細い音を立てた
ベッドが、ぎし、ぎし、と、女のリズムで鳴る。俺のリズムやない
下から合わせようとしたら、女は俺の胸を押して、止めた
「動かんとき」
動かんかった。…動かれへんかった、が正しい
スタンドの灯りが女の背中を照らして、向かいの壁に影が伸びとった
影のほうの女は、でかかった。俺をすっぽり飲みこむくらい
クローゼットの扉が鏡になっとって、女のうなじから汗がひと粒、背骨のくぼみを伝って腰まで落ちていくのが映っとった
その下に、俺も映っとった。仰向けで、口あけて、天井見とる男
…見んかったらよかった
女の胸が、俺の顔の上で上下する。顎から落ちた汗が、俺の唇に当たった。しょっぱかった
女の指が、俺の指に絡んで、シーツに押しつける。関節と関節が、ぎち、と噛み合う
汗で滑って、もう一回、握り直された
逃がさん、いう握り方やった。俺が客によう使た握り方や
波が、だんだん高なる
女の太ももが、俺の腰の横で、ぴくぴく震えだした。膝の裏に溜まった汗が、俺の脇腹にぽたぽた落ちてくる
「…っ、じん…」
源氏名で、呼ばれた
本名を知らん女に、嘘の名前で呼ばれて、俺は、なんでか、そこでいちばん来た
心臓がうるさかった。耳の奥で、自分の脈がどっどっど、と鳴っとる
目の奥がちかちかして、足の指が勝手に丸まった
女の背中が、ぐうっと反った。喉をさらして、声にならん息を天井に吐いた
体じゅうが細かく震えて、俺の手を握る指に、爪が立った
その震えに、引きずられた
視界が、白う弾けた
腰の奥から熱いのが一気に駆け上がって、抜けていった
……薄いもん一枚の、こっち側で、全部終わった
どこにも届かんところで終わらせる。それが、俺がずっと決めてきた線やった
今夜は、その線を引いたんが、俺やなかったけど
女が、俺の胸の上に崩れてきた
重い。汗で、ぴったり吸いついた。二人ぶんの心臓が、胸板越しに、ずれたリズムで打っとった
急に眠なった。終わったあと男はそうなるように出来とるらしい。どっかで読んだ
読んだとおりになるんが、また腹立つ
背中の汗がエアコンで冷えていく。さっきまで熱やったもんが、ただの湿ったシーツになっていく
女が先に、体を起こした
「始末、自分でしいや」
それだけ言うて、バスルームに入った
俺は、言われたとおりにした
ティッシュを三枚取って包んで、口を結んで、もう二枚で包んだ
破れてへんか、それだけは灯りにかざして見た。確認はする。数字と同じや
ほんで、ゴミ箱に捨てかけて、手が止まった
手紙、と女は言うた
三年前のことを知っとる女の部屋のゴミ箱に、俺のもんを残していくんか
…持って帰ることにした
脱いだシャツの胸ポケットに、ティッシュの塊を突っこんだ。三万八千円のシャツのポケットに
アホや。書いてて、ほんまにアホやと思う。でも、そうした
シャワーの音が止まって、女が出てきた
もうブラウスを着とった。ボタンは上まで全部。俺が外した三つも、ちゃんと閉まっとった
鏡の前で髪をタオルで押さえて、口紅を引き直す。粉をはたく。ストッキングを履く
一個も急がへん。一個も、俺を見いへん
最後に、バッグから、あの角の擦れた財布を出した
机の上に、何か置いた
置いて、その横にカードキーを並べた
「チェックアウト十一時やから。延長したかったらフロントに言うて。払てあるし」
「…おう」
「ほな」
ドアが閉まった。オートロックの、かちゃん、がやけに軽かった
机の上にあったんは、四千二百円やった
千円札が四枚と、百円玉が二枚
俺が黒猫橋で払うた、ハイボール三杯の分
ぴったりや
一万円やったら、怒れた
三万やったら、笑えた
「なめとんか」て、口に出して言えた
四千二百円は、なんも言えへん
払うた分を、払うた分だけ返された。貸し借りなし。あんたとはここで清算や、いう金額
しばらく、触らんかった
シャワー浴びて出てきても、まだあった。そらあるわ
パンツ一枚でベッドに座って、それ見とった。三分くらい
三分あったら、店におったころの俺は、女ひとりに値段つけとった
結局、取った
言い訳しとく
置いていったら、清掃の人が困るやろ。忘れ物扱いでフロントに行って、部屋の名義で記録に残る。それは避けなあかん
…これは、いま考えた理由や。そのときは何も考えてへんかった
手が勝手に札を数えとった。二回数えた。四千二百円を、二回
部屋を出るとき、もう一回、全部見回した
シーツの上に、包みの切れ端が残っとった。女が歯でちぎって吐いた、ギザギザのやつ
それも拾て、ポケットに入れた
俺がここにおった証拠を、一個も残さん
…誰から何を守っとるんかは、よう分からん
外は、降っとった
駅前のコンビニのゴミ箱に、シャツのポケットの塊を捨てた。燃えるゴミのほうに
店員がこっち見とった気がする。気のせいや
そのまま、ラーメン屋に入った。今月の一回、まだ使てへんかったから
とんこつ、味玉のせ、九百八十円
女の千円札で払うた
人の金で、腹を満たす
写真一枚しか残ってへん、あの男の顔が、どんぶりの湯気の向こうにちらっとした
すぐ消えた。消したんや
おつり、二十円
いま、これ書いとる机の上にある
財布に入れたら混ざるやろ。混ざったら、どれが女の金か分からんようになる
…分からんようになったら何が困るんや、とも思う
母親のLINEには、帰りの電車で返した
「食べとる」
三分で既読がついた。夜中の二時やのに
妹がおらんようになってから、あの家、母親ひとりや
ええか、この話の教訓は一個や
金の話を先にしたほうが勝つ
俺はそれを八年かけて覚えて、十年目に、四十すぎの女に、四千二百円で教えられた
結局は金や
…いや、今回は、金ですらなかったんかもしれん
四千二百円は、四千二百円や。それ以上でも以下でもない。数字は嘘つかん
それが、いちばん効いた
右肩は、まだ痛い。今日はジム休む
タグ: 夜の話 / 金 / 雑記
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