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右手のゆくえ
日曜は店が休みなので、昼すぎに起きて先代ママの見舞いに行った。雨は朝よりも強くなっていて、風にあおられた傘が二度ほど裏返りそうになったのに、バスには乗らずに歩いた。たぶん、歩きたかったんだよね、わたし。
リハビリ室の窓ぎわで、先代ママは平行棒につかまっていた。右半身はまだ思うように動かないのに、銀色に染めた短い髪だけはちゃんと立っていて、口紅も昔と同じ濃い朱のままだ。理学療法士さんが「あと三歩ですよ」と言うと、「三歩って、あんた、ずいぶん安く言うわね」と返していて、声だけは店にいたころと変わらず大きかった。
三歩目で、右の足が床をこすった。その音が、グラスの底で氷が溶けて崩れるときの音にすこし似ていたので、聞かなかったことにして窓の雨ばかり見ていた。見られたくない顔というのは、だいたい本人がいちばん上手に隠すものなんだよね。
帰りぎわ、先代ママがベッドの上で、動くほうの左手でわたしの袖をつまんだ。「店、冷めてない?」と言う。冷めてないよ、と答えた。うそではない、ような気がする。常連さんの顔ぶれも、棚のボトルも、たぶんそのままで、ただ、能登のニュースを流しながら静かに飲む夜が、今年になってなんとなく増えた。
持っていった卵焼きは、半分しか食べてもらえなかった。残りは帰りのバス停で、わたしが食べた。しょっぱかった。
手を握り返してもらえなかったことを、いまも考えている。握る力がないのか、握らないのか。どちらでも、わたしは同じ顔で帰ってきた。ぼんやりと。
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