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左手でつかむ
火曜の午後、先代ママの見舞いに行ってきた。リハビリの施設は電車で三つ先にあって、霧雨のなか、傘を持つか持たないかで駅のまえで少し迷い、結局は持っていくことにした。たぶん、そういう日なんだよね。
先代ママは右半身が思うように動かなくて、それでも車椅子の上で、左手に丸いスポンジのボールを握らされていた。つかんで、はなす。つかんで、はなす。グラスを三つ指に挟んで平気な顔で運んでいた人が、いまはボール一個に息があがっているのを、わたしはただ見ている。見ているだけというのがいちばん体力を使うような気がする、なんて、自分の疲れを先に数えてしまうところが、我ながらせこい。
「店はどうなの」と聞かれて、いつもどおりです、と答えた。本当は先月から氷の減りが早くてボトルの減りは遅く、そのかわり閉店まぎわにひとりで来る客が増えている。そういう話をしようとして、やめた。ここで聞いた話は、ここで冷ます。あの人の口癖を本人のまえで破るのは、どうだろう。
帰りぎわ、左手がわたしの手首をつかんだ。思っていたよりずっと強くて、指の腹があたたかく、口紅の濃い朱はちゃんと引いてあった。だれが塗ったのかは、聞かなかった。
帰りの電車の窓に映る自分の首すじを眺めながら、そういえば、あの人にひとつも「ありがとう」を言っていないことに気づいた。カウンターに立つたびに言いそびれたぶんが、ほどけた襟足みたいに少しずつ垂れていく。まあ、いいか。いや、よくないんだよね、たぶん。
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