雨が聞こえなくなった
ゆうべは、閉店まで雨だった。傘をひらいて階段をおりたら、返事を三週間ためていた人が、向かいの軒下に立っていた。客じゃない。店には、一度も来ない。来ないところが、たぶん、いちばんずるいんだよね。
部屋まで、ふたりとも、なにも言わなかった。エレベーターのない四階ぶんの階段で、わたしの息だけが先にあがって、それが恥ずかしかった。濡れたコートを脱がされると、ウールが重たい音で床に落ちて、その上にカーディガン、それから白い襟が、取りこみ忘れた洗濯物みたいに、くたっと重なった。眼鏡にかえる暇もなかった。窓には、街灯の黄色が、うすく滲んでいた。
あとのことは、氷に似ていた。グラスの中で、氷がゆっくり角をなくしていく、あの速さ。最初はぎこちなくて、ぶつかって、小さく鳴って、それからだんだん、どこまでが自分の輪郭なのか、わからなくなる。首すじを汗がつたって、鎖骨のくぼみで止まって、また流れる。シーツをつかんだら、しわが指のかたちに寄った。寄せては返して、また寄せて、そのたびに背中の下で、古いマットレスがかすかに軋む。窓が、ふたりぶんの息で、白く曇っていく。かすれた低い声が、自分のものじゃないみたいに漏れて、言葉がほどけて、最後は、名前だけになった。
そのとき、雨の音が、ふっと消えた。線路の音も。ぜんぶ白くはじけて、遠くで、映写機のフィルムが切れたみたいだった。
気がつくと、重たい腕が、わたしの腰の上にあった。ひどい肩こりが、すこし軽くなっていた。それが、いちばんみじめだったりして。
明け方、彼は靴下をはきながら、また連絡する、と言った。毎晩カウンターで聞いている嘘と、おなじ温度だった。
人の嘘を冷ますのが仕事なのに、自分に向けられた嘘だけは、まだ、ぬるいまま抱いている。
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