着信履歴は母、送信履歴は先輩
仕事終わり、駅の階段で母から着信。出ちゃったあたしがバカなんだわ。
月末で、残業で、受注の締めで、九時すぎ。改札に向かう途中、多賀原行きのホームに降りる階段の、ちょうど真ん中。画面に「母」って出た瞬間に切ればよかったのに、親指が勝手に緑のほう押してた。五年ぶりくらいに来た電話番号みたいな顔して。実際は八か月ぶり。
「陸の運動会、あんただけ来ないって親戚に言われた」
「おばあちゃんの家、片付けるから。あんたの物、捨てていいね」
「いい歳して何してんの」
「あんたは父親に似て」
最後まで聞かずに切った。手が震えてて草。いや草じゃないんだわ、まじで。
おばあちゃんちの押し入れには、あたしの小学校の絵の具セットと、中学でやめたクラリネットの楽譜が入ってる。捨てていいね、って。疑問形ですらない。ね、で終わるやつ。あの人の「ね」は昔から、もう決めたって意味。
……
三十秒後には先輩にLINEしてた。「今日、来れる?」。
十分後に「一時間だけ」。
一時間だけ。下の子まだ半年の家から一時間だけ抜けてくるクソ男と、それ待ってシャワー浴びてるクソ女。お似合いすぎて吐きそう。
電車で二十分のあいだに、やることを全部頭で並べた。仕事と同じ。受注入力の順番決めるのと同じ脳でやってるのが、いちばん終わってる。
帰って、まずリビング。
ローテーブルの上に、カードの明細の封筒が開けっぱなしで置いてあった。紙で来るように設定したのは、アプリだと開かないから。紙だと、開かないまま積んで、存在感で殴ってくる。今月の請求、リボの残高、四十一万二千いくら。ソファとラグがまだ半分くらいそこに住んでる。
封筒をソファのクッションの下に突っ込んだ。突っ込んでから、その上に座ることになるのか、と思って、取り出して、キッチンの引き出しのラップの下に入れた。ラップの下。人生でいちばん情けない隠し場所。
ソファはグレージュのファブリック。インスタに上げたら「どこの?」って三件聞かれたやつ。ラグは毛足の長い白っぽいの。白は汚れるって分かってて買った。分かってて買うの、あたしの得意技なんだわ。
シャワー。
腕と脚のムダ毛を剃った。膝の横を剃り残して、気づいたけどもういい。下着は上下揃ってるのを探して、揃ってるのが一組しかなかった。三月にセールで買って、先輩の前でしか着てないやつ。先輩専用の下着があるって何。社用車かよ。
髪を乾かして、コンタクト入れ直して、眉だけ描いた。フルメイクすると「待ってた」感が出るから、眉だけ。この計算、誰も見てないのに毎回やってる。
二十二時四十一分、インターホン。
ドア開けたら、先輩はスマホを見てた。
親指が動いてた。打ってた。たぶん「ごめん、課長に捕まった」とか「先方と飲み直し」とか、そういうの。あたしの家の玄関の前で、奥さんへの言い訳を仕上げてから、入ってくる。送信の、ひゅっていう小さい音が廊下に響いて、それから顔を上げて「ごめん、遅くなった」って。
謝る相手、順番逆じゃない?
とは言わなかった。言ったら一時間が四十分になる。
玄関で、外の冷たい空気ごと抱き寄せられた。
コートの表面だけ冷えてて、その下の背中は電車の暖房で湿ってた。十月の終わりの夜の匂いと、駅の匂いと、その奥に、いつもの柔軟剤。あれ、何のやつなんだろう。聞いたことない。聞いたら奥さんが選んでる銘柄を知ることになる。知りたくない、のふりをしてる。たぶんドラッグストアで匂い嗅いで回ったら、三分で見つけられる。
先輩の顎が、あたしの頭のてっぺんに乗る。百七十六と百五十八の差。この高さで抱かれると、あたしの耳がちょうど先輩の鎖骨のところに来て、心臓の音が聞こえる。営業のときと同じ、落ち着いた速さ。むかつく。こっちは母の「ね」がまだ耳の奥で鳴ってるのに。
電気は消して、窓の向こうの港の明かりだけ。
この部屋を決めた理由の、たぶん七割はこの窓。内見のとき、不動産屋の人が「夜はきれいですよ」って言って、あたしはそれだけで判を押した。家賃六万九千円のうち、二万くらいは港の明かり代。月二万で、暗いリビングに遠い黄色い点がいくつも浮かぶ。クレーンの赤いランプが、ゆっくり、点いて、消える。
ソファに座らされたのか、あたしが引っ張ったのか、覚えてない。
先輩の手がブラウスの襟から入ってきて、首の付け根を親指で押した。そこ、月末の入力で毎日ばきばきになってるところ。押されると痛くて、痛いのが熱に変わるのに三秒くらいかかる。その三秒のあいだ、あたしは天井を見てた。
ブラウスのボタンが一個ずつ床を転がる音。
……いや、正確には、転がったのは一個だけ。あとはちゃんと外れた。二番目のボタンが、糸が弱ってて、先輩の指に引っかかって取れた。ラグの毛足に落ちて、音がしなかった。ほかのは、外れる音もしない。ボタンが外れる音って、ないんだね。布が肌から浮く音だけがする。
胸元に空気が入ってきて、肌が一気に粒立った。鎖骨のくぼみから、二の腕の内側まで、ざあっと鳥肌が降りていく。先輩の唇がそこに来て、粒を一個ずつ潰すみたいに、ゆっくり、首から肩へ。唇が通ったあとが、息で湿って、その湿ったところだけ部屋の空気で冷えていく。冷えたところに、また唇。
うなじに手が回る。髪を、根元から掻き上げられる。ミルクティーベージュのロング、月に一回のカラーで一万二千円。指が根元を通るとき、ちょっとだけ伸びてきた地毛の黒いとこを撫でられてる気がして、そこだけ恥ずかしかった。たぶん先輩は気づいてない。気づいてないことにする。
エアコンの低い唸りが、途中からぷつっと聞こえなくなる。
聞こえなくなる、っていうか、自分の息がうるさくなって、上書きされる。
背中の手が熱くて、伝票を一枚ずつめくるみたいに、あたしがめくられていく。
これ、書いてて自分で笑った。仕事の比喩しか出てこないの。でもほんとにそうなんだわ。先輩は、仕事のときも、伝票の端をちゃんと指で揃えてからめくる人で、急がない。急がないくせに、一枚も飛ばさない。
背骨の、首から下りて三つ目くらいの骨のところで、指が止まる。そこから、くぼみに沿って、一個ずつ。腰の手前で、汗が溜まってた。シャワーのあとなのに、もう。指がそこを通るとき、ぬる、って滑って、滑ったところから、腰の奥のほうへ、じわっと熱が落ちていった。
ソファの座面が、二人分の体重で沈む。グレージュの布に、汗ばんだ太ももの裏が張りついて、動くとき、ぺり、と剥がれる。剥がれた跡が、布にうっすら残る気がして、一瞬、それが気になった。ファブリックは拭けない。三十六回払い。
って、思ってるあいだにも、先輩の手は膝の裏に入ってて。
膝の裏、汗かいてた。そこを親指でなぞられると、脚に力が入らなくなる。知ってるんだよね、この人。二年で覚えた。覚えたことを、毎回ちゃんと使う。営業ってそういう仕事。顧客の好みは手帳に書いとくもの。あたし、手帳のどのページにいるんだろう。
ラグに、ずり落ちた。
毛足の長いのが、背中全体を、ちくちく、ふわふわ、受け止めた。白っぽい毛が肌に貼りつく。汗で。肩甲骨のあたりに、たぶん、いっぱい。
先輩が上に来る。窓の明かりが、先輩の肩の形を縁取って、天井に、ぼんやり二人分の影を伸ばしてた。影は一個に見えた。重なると、どっちがどっちか分からない。分からないのが楽だった。
体の奥のほうが、ゆるんでた。
自分でもびっくりするくらい、早かった。母に怒鳴られた日って、なんでか、こうなる。体がやけに素直になる。素直、って書くとかわいいけど、たぶん逆で、頭が使いものにならないから、体が勝手にやってるだけ。
冷蔵庫に入れ忘れたプリンが、夏の部屋で、カラメルからじわじわ溶けて、器の縁まで上がってくる、あの感じ。甘くて、ぬるくて、止められない。自分の中から、そういうものが、とろっと満ちてくる。先輩の指がそれに気づいて、一瞬だけ、息を吸う音がした。
恥ずかしいって思って、思ったぶんだけ、また満ちた。
先輩がローテーブルの下の、小さい箱に手を伸ばした。いつもの場所。あたしが置いてる。あたしが、駅前のドラッグストアで、ポイントつけて買ってる。先輩が持ってきたことは、一回もない。
持ってくると、家のどこかに予備が残る。残ったら、見つかる。だから持ってこない。合理的。むかつくくらい。
包みの擦れる、ちいさな音。
暗い中で、先輩の手つきがやたら速い。慣れてる。何に慣れてるかは考えない。考えないで、天井を見る。
……
ここで一回だけ、一瞬だけ、思った。
それ、つけなくてもいいよ、って。
言ってない。口は動いてない。でも、喉のところまで来た。先輩の人生に、なんか、あたしが残ってもいいんじゃないかって。下の子が半年の家に、もう一個、消えない何かを。
すぐ引っ込めた。
引っ込めた自分にほっとして、ほっとした自分に、ちょっと泣きそうになった。あたしが一番なりたくないの、あの人だから。父親にいなくなられて、残った子どもを「父親似」って言い続ける女。
満ちてくる。
先輩が、ゆっくり沈んできて、あたしの息が一回、喉で止まった。止まって、それからほどけた。ほどけた息が、先輩の首に当たって、湿って、跳ね返ってくる。
最初は揺れてるのかどうかも分からないくらい。寄せて、引いて。引くたびに、腹と腹のあいだで、汗が小さく鳴った。肌が離れるとき、ちゅ、って吸いつくみたいな音。ラグの毛が、背中の下で、ざり、ざり、とよれていく。
先輩の額から、汗が一粒、落ちてきて、あたしの唇の端に当たった。しょっぱかった。舐めた。舐めたのを見られてた。
息が速くなって、ゆるんで、また速くなる。
窓の外を、遠くでなにかの船の汽笛が、低く一回。クレーンの赤いのが点いて、消えて、点いて。その間隔より、先輩のほうがだんだん速くなっていく。
潮が、上がってくる感じ。じわじわ、じゃなくて、ある波から急に、膝のあたりまで来る。足もとの砂がさらわれて、立ってられなくなる。脚が勝手に先輩の腰に絡んで、かかとで引き寄せてた。そんなことしようと思ってない。体が勝手に、深いほうへ行きたがってる。
先輩の背中に爪を立てそうになって、やめた。痕が残る。奥さんが見る。
……やめた自分を、ずるいと思うより先に、えらいと思っちゃったのが、いちばん終わってる。
かわりに、シーツ掴んだ。
ってほんとは書きたかったけど、ラグなんだわ。掴むものがないの。毛足を掴んだ。白い毛が指の間からはみ出して、握ったら、指が白くなった。
ここで、あたし、ちょっと冷めた。
冷めたっていうか、上から見えた。
天井の角あたりに、もう一人あたしがいて、下を見てる。
ラグの上で、カードで買ったラグの上で、半年の子どもがいる男の下で、口あけて、毛を握ってる女。
「求められてる」っていう、それだけのために、髪を一万二千円で染めて、六万九千円の部屋借りて、下着を一組だけ揃えてる女。
求められてる。今、この瞬間だけは、ちゃんと。
先輩の息が耳元で荒くて、腕があたしの肩をきつく抱いてて、その力の分だけ、あたしは何かである。何かの値段がついてる。
上から見てるあたしは、それを鼻で笑ってた。
下にいるあたしは、それにしがみついてた。
どっちもあたし。
波が、高くなる。
先輩の呼吸が、短く、短く、詰まっていく。あたしの太ももが、内側から勝手に震えはじめる。腹が波打って、息を吸っても吸っても、肺の上のほうにしか入ってこない。
名前呼びそうになって、噛み殺した。
先輩の、下の名前。会社では絶対呼ばない名前。この部屋でも、たぶん二回くらいしか口に出したことない名前。それを、唇の内側を噛んで、止めた。歯の跡が残るくらい。血の味は、しなかった。しなかったのが、ちょっと残念だった。
呼んだら負けな気がした。とっくに負けてるのに。
背中が反った。ラグから浮いた。浮いた背中の下に先輩の腕が入って、それに体重全部あずけた。目の奥で、白いのが弾けた。弾けて、弾けて、足の指が丸まって、喉から、地声の、低い、かすれた音が出た。会社の電話の、一段高い作った声じゃないほう。誰にも聞かせない声。
先輩が、一瞬遅れて、来た。
あたしの肩口に顔を埋めて、息を止めて、背中が硬くなって、それから、全部ほどけた。薄いもの一枚の向こう側で。あたしには、何も残らないところで。
重い。
六十何キロが、ただの重さになって、あたしの上に乗ってた。汗で胸と胸が貼りついて、二人ぶんの心臓が、ずれたリズムで、ばらばらに打ってた。先輩のほうが先に落ち着いた。いつもそう。
背中の汗が、ラグの毛に吸われて、冷えていく。さっきまで熱だったものが、ただの湿った毛足になる。
二十三時三十八分。
先輩が体を起こした。
ここからが速い。まじで速い。
ティッシュを三枚引き抜いて、自分の処理をして、それを二重に包んで、キッチンのゴミ箱の、一番下に押し込んだ。あたしの家のゴミ箱の構造を、たぶんあたしより知ってる。燃えるゴミの日が火曜と金曜なのも知ってる。
シャワー、三分。たぶん髪は濡らしてない。濡らすと奥さんに分かるから。ボディソープも使ってない、たぶん。お湯だけ。うちのボディソープの匂いを家に持って帰らないために。
脱いだシャツを、裏返しにならないように、ちゃんと表で着る。ボタンを下から留める。ネクタイはしないでポケット。
二十三時五十八分、衣ずれ。指輪はめ直す音って、あんな小さいんだね。
コートのポケットから出して、親指で、くっと押し込むだけ。音っていうか、空気の音。金属が皮膚を通るときの、ほとんど聞こえない、こすれ。その小ささで、二年分のことが全部、元の場所に戻る。
スマホを見て、何か一行打って、ひゅって送って。
「終電、ぎりだから」
知ってる。仙宮方面の最終、多賀原発〇時十二分。あたしの方が先に調べてる。
玄関で、あたしの頭を一回、ぽんって。
それで終わり。
「またね」も「好き」も「ごめん」もない。先輩は、一回も、何も約束しない。別れるとも、離婚するとも言わない。それを誠実だと思ってた時期もある。嘘をつかない人なんだって。
今日はちゃんと分かった。言わないのは、あとで何も払わなくていいようにだ。
柔軟剤の匂いだけ置いてった。
一人になってから、あたしがやったこと。
電気をつけた。白い光で見ると、ラグに、ボタンが一個、毛足に沈んでた。拾った。
ラグの、背中があったあたり。うっすら、湿って毛がへたってた。ウェットティッシュで、とんとん叩いた。何も付いてないのに、叩いた。リボで買ったラグなので。
ソファの座面に、太ももの跡。布用のスプレーを、しゅっしゅっ。ファブリックの匂いの上から、柑橘の匂い。先輩の柔軟剤と喧嘩して、いずい匂いになった。
それから、スマホの、生理のアプリ。
前回から数えて、今日は十九日目。たぶん、いちばん危ない山はもう越えてる。卵が出てくる日は、だいたい次の生理の二週間前、って、アプリの解説に毎月書いてある。うちの周期だと、先週の頭あたり。今日は下り坂のほう。
しかも薄いの一枚、ちゃんとあった。
なのに、指が勝手に検索してた。
今年の二月から、薬局で買えるようになったやつ。処方箋なしで、ただし薬剤師さんの目の前で、その場で飲む。七千円台。七十二時間以内。
……要らないのに、値段だけ調べてる。七千円って、リボの今月の利息とたぶん同じくらい。そう思ってスクロールしてたら、自分がなにを確かめたいのか分かんなくなって、閉じた。
先輩は、こういうことを一回も調べたことないと思う。
調べなくていい側にいるから。
シャワーのあと鏡見たら、母に似てきた顔が泣いてた。
奥二重の、目尻の下がり方。口の端の、きゅっと結ぶ癖。湯気の向こうで、ひっつめ髪の女がこっち見てるみたいだった。
「あんたは父親に似てだらしない」
似てんのはあんたにだよ、クソババア。それがいちばん死にたい。
……
一時半。高校のジャージの上にブルゾン羽織って、駅前のコンビニ。
新作の、かぼちゃのプリンと、普通の焼きプリン。二個。
レジのお兄さんに「スプーンお二つですか」って聞かれて、「はい」って言った。二人で食べる人に見えたなら、それでいい。
帰って、ベッドの上で、二個とも一人で食べた。
太るが?知らんが?
母のLINEが一件だけ来てた。「片付け、来月の三日」。
既読つけた。返事は、してない。
で、これ書いてるのが今、翌日の昼休み。
会社で先輩と、普通に見積もりの話した。「その件、メーカーに納期確認しといて」「はーい」。声、一段高いほう。完璧すぎて草。
母の声を消すのに、先輩の体温を使った。あたし的には、いちばん汚い使い方。
しかも消えてないのウケる。ウケてない。
求められてる間だけ、あたしにはちゃんと値段がついてる。終わった瞬間に定価割れ。分かってる。分かってて呼んだ。たぶんまた呼ぶ。
……
おばあちゃんちの押し入れの、クラリネットの楽譜。
あれだけ、取りに行こうかな。三日。
行かないけど。知らんけど。
タグ: 母 / 恋愛 / 病み / 深夜スイーツ
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