帰宅して三秒で負ける
仕事から帰って玄関を開けると、実家の犬が走ってくる。三歳になっても、この出迎えだけは子犬のころから変わらない。茶色のくるくるした毛を揺らして、わたしの足に二回ぶつかり、一回転して、また足にぶつかる。要するに、挨拶の手順が決まっているのである。誰も困らないけれど、こちらは靴が脱げない。
今日は小雨で、傘をたたむ間にもう足元にいた。濡れたズボンの裾を、念入りに嗅いでいる。どこの雨をつけてきたのか、調べているのだろうか。いや、違う、たぶん何も考えていない。ただ、わたしが帰ってきたことだけは、ちゃんと分かっているらしい。会社では一日、誰にも名前を呼ばれない日もあるわけで、この差はけっこう効く。
母に言わせると、わたしの車の音で、もう玄関に向かうそうです。軽自動車のエンジン音を、他の車と聞き分けている。どうやら、わたしより耳がいい(いちおう、わたしも聴力には自信があるんですけどね)。
そのあと、夕飯までの三十分ほど、居間の床で犬の背中を撫でながら、ぼんやりする。今日の原稿のことも、直しの赤字のことも、その間は頭から消えている。撫でる手を止めると、前足でこちらの腕をちょいちょいと叩いてくる。続けろ、ということである。仕事ではあまり言われない種類の、はっきりした指示で、まあ、悪くない。
結局、帰宅して三秒でこちらの負けだった。勝てる気もしないので、明日も負けておきます。
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