弾きたくない朝もある
朝から雨だった。ピアノの部屋に入ったが、蓋を開けるまでに、ずいぶんかかった。
妻の検査が続いておって、わしの頭の中は、どうも落ち着かん。譜面を立てても、音符が目に入ってこんのだに。老眼鏡をかけ直して、それでも同じだった。こういう日は、あるもんだ。
昔はな、道具が乗らん日は、かんなを持たんかった。刃を研ぐだけにして、台を調える。それで、手が先に思い出してくれる。ピアノもそうかと思って、弾かずに、鍵盤を拭いた。布で一本ずつ、黒鍵も、ちゃんと。
そのうち、サバが入ってきて、足元で丸くなった。ふふ、重くはないが、あったかい。それで、ドの音をひとつ、ゆっくり押してみた。もう一音。気づいたら、いつもの童謡を二回、通しておった。
先週、先生に、気が向かん日はどうしたらいいか、聞いてみた。「一曲でなくて、一音でもいいんですよ」と言われた。そのときは、ふうんと思っただけだった。今朝になって、少し分かった気がする。
夕方、傘をさしてあずま屋の売店まで歩いた。妻の好きな柔らかい豆大福を買った。食べられるかどうかは、まあ、分からんが。
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