「うん」を9回言った
19時42分、母から電話。LINEじゃなくて、電話。雨の音で気づくのが遅れて、焦って緑のボタン押しちゃったんだわ。あたしの指、まじで母の言いなり。
「陸がね、あんたの話ばっかりするのよ」から始まって、「27でまだ一人?」「お父さんに似て、だらしないとこあるから」で終わった。12分。あたしは「うん」を9回言った。
……切ったあと、手が冷たかった。
頭の中で、あの人のひっつめ髪を掴んで、実家の流しの角に顔から叩きつけた。一回目でゴッて鈍い音。二回目で鼻が折れて、指に骨がずれる感触が来る。三回目で前歯がシンクに落ちてカランって鳴る。血と鼻水で「沙耶、やめて」ってゴボゴボ言うの。あたしの名前を、生まれて初めてちゃんと呼ぶ声で。それ聞いて、やっと笑えた。最低じゃん。知らんが?
で、21時すぎ、先輩にLINEした。「雨やばい」だけ。それで先輩が来るの知ってて送った。来た。娘が生まれて7か月の男が、奥さんに「現場トラブル」って嘘ついて、傘差して、あたしの部屋に。クソじゃん。呼んだあたしは、もっとクソ。
電気つけないで、って言ったのはあたし。窓の外、港の明かりが雨で全部にじんで、ガラスの水滴が一個ずつオレンジに光ってた。濡れた髪の冷たさと、首筋に落ちてくる息の熱さが、交互に来る。ブラウスのボタンが三つ目で引っかかって、先輩の指が一回止まって、また動く。あの止まった一秒が、いちばんいずい。ラグに背中が沈んで、エアコンの音も雨の音も、ある瞬間からどっちも聞こえなくなった。給湯器がお湯を張るみたいに、下からじわじわ熱が満ちてきて、あたしは途中から、名前じゃなくて「いて」しか言えなくなってた。行かないで、の頭の二文字だけ。
0時40分、帰り支度の衣ずれ。靴下はくの、早すぎて草。背中の体温が、ドアの閉まる音と一緒にきっちり冷めてく。残ったのは柔軟剤の匂いと、あたしの爪が先輩の肩に食いこんだ感触だけ。あの肩、いまごろ奥さんの横で、赤ちゃん抱いてんだよ。
「だらしない」って言われて、だらしないことして証明してやった。ざまあみろ、あたし。
コメント
えらくはない。でも、ありがと
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