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起きたら夕方5時やった
当直明け。彼女のアパートに直行して、シャワー浴びて、ソファに座った。そこまでは覚えとる。
起きたら夕方5時。
今日は図書館が休みやけん、昼から温泉行こうって約束しとったと。日名田の共同湯行って、帰りに映画。彼女が三週間前から楽しみにしとったやつ。チケットはスマホの中で、上映はとっくに終わっとった。台所に彼女の背中。返事なし。眼鏡の奥の目が、まじで冷たか。外は一日中雨で、部屋の中まで冷えとった。俺の心も。
怒鳴らんとよ、うちの彼女は。それがいちばん怖か。包丁の音が、いつもよりちょっとだけ規則正しか。トン、トン、トン。メトロノームか。俺の心拍は、そのとき110はあったと思う。訓練で階段十往復したあとくらい。寝起きで口の中はネバネバ、ソファのクッションの跡がほっぺに斜めについとって、髪は片側だけ寝ぐせで逆立っとった。かっこわる。
「ごめん」
「……うん」
「まじでごめん」
「うん。知っとる」
知っとる、て。知っとるけん怒っとるとよね。わかる。
で、ここで俺は考えた。体育会系の謝罪といえば何か。行動で示す。以上。
「今日の晩飯、俺が作る!!」て言うた。声がでかすぎて、彼女の肩がビクッてなった。隣に聞こえるけんって、無言で人差し指を口にあてられた。
作るのは、卵焼き。彼女のいつもの甘いやつ。当直の朝に持たせてくれる、おにぎり弁当のすみっこに入っとるやつ。あれを俺が作って返したら、気持ちが伝わるはず。単純やろ。単純なんよ俺は。
結果から書く。
黒か。
いや、外側だけ黒か。砂糖ば入れすぎたとと、火を強くしすぎたとと、巻くときにフライ返しが卵の下にうまく入らんで、焦っとるうちに底が炭になった。煙が出た。火災報知器の真下で。現役の消防士が。台所で。煙ば手でパタパタ払いながら、反射で「火元確認!」て言うてしもうた。
そしたら彼女が、口元に手ばあてて、肩ば震わせて、それでも我慢しとったとけど、俺がフライパンの上の炭のかたまりを見て「……これ、要救助者やなかね」て言うた瞬間、完全に吹き出した。
その場にしゃがみこんで笑いよった。声は小さかとに、しゃがんだまんま、ずーっと。眼鏡ずらして涙ぬぐって、また笑って。
勝った。いや、負けとる。負けとるけど、勝った。
焦げたとこを削いで、中の黄色かとこだけ二人で食べた。甘すぎた。でも彼女は「おいしか」て言うた。ぜったい嘘。でも、その嘘で、なんさま俺は許された。
で、ここからが本題。照れるけん、早口で書く。ゆかねえ、読むなら覚悟して(笑)。
風呂あがり。彼女はいつもの、くたっとした水色のパジャマ。袖口の毛玉、去年より増えとる。俺は、彼女んちに置かせてもらっとるジャージ。この部屋、1LDKのリビングの壁が全部本棚なんよ。床から天井まで。地震来たらどうすっとかって最初に言うたら、ちゃんと突っ張り棒しとった。さすが。
その本棚の前で、彼女が、一冊抜いた。
『はじめてのキャンプ 道具と火の基本』。
俺が、図書館に通う口実にしとった本。二年前、四回借りた。四回て(笑)。中身もう覚えとるとに、カウンターに彼女がおる日ば狙って借りに行きよった。それを、彼女は自分で一冊買うて、ここに置いとったらしい。
「これ、四回借りたよね」
「……覚えとると?」
「貸出記録、見られるけん」
職権乱用やろ!!て言いかけて、顔が熱うなって何も言えんかった。本棚の前で、29歳のでかか男が、耳まで真っ赤。背表紙がずらっと並んどって、全部に見られとる気がした。
彼女が、その本ば棚に戻すとき、背伸びした。
つま先立ちのかかと。ふくらはぎの、白か筋がすっと伸びる。パジャマの裾が持ち上がって、腰のくびれのとこが、ちょっとだけ見えた。俺は、後ろから、本ば押し込むふりして、彼女の手に、手ば重ねた。
彼女の手の甲、まだ冷たかった。本の紙の匂いがした。古か本の、ちょっと甘か、乾いた匂い。図書館の書庫の匂い。この人の指は、いつもこの匂いがする。
うなじに、鼻ば寄せた。
髪は、乾かしたばっかりで、まだ根元にほんのりぬくもりの残っとる。ドライヤーの温風の匂いと、シャンプーと、その奥にやっぱり紙の匂い。肩までの黒髪をかき分けたら、生え際のとこに、細か産毛。そこに唇ば当てたら、彼女の首が、すくって縮んだ。
「くすぐったか」
「ごめん」
「……やめてとは言うとらん」
ずるか。この人、怒っとるときと同じ、ゆっくりした小さか声で、こういうこと言う。
彼女がこっち向いて、眼鏡を外した。
これよ。これがいちばん効く。丸か眼鏡ば、つるの片方からそっとたたんで、本棚の、ちょうど目の高さの段に置く。置いた瞬間、目が、ちょっとだけ焦点ば失って、ふにゃってなる。視力0.1ないけん、俺の顔もぼやけとるはず。そのぼやけた目で、俺ば探すみたいに見上げてくる。
心臓が、ポンプ車の吸水みたいな音ばたてた。ドッ、ドッ、て、腹の底から。
最初のキスは、卵焼きの甘か味がした。焦げのとこの苦みも、ちょっとだけ。
唇がやわらかか。ちっちゃか。俺の口で全部ふさがるくらいちっちゃか。最初は、そっと。つついて、離れて。三回目くらいで、彼女のほうから、下唇ばやわく噛んできた。前歯の、かすかに硬か感触。そこからはもう、遠慮のぶんだけ、口の中がとろけていった。
舌先が触れると、彼女の喉が、こくん、て動いた。それが首に当てとった俺の指に、はっきり伝わった。仕事柄、首に指当てたら、勝手に脈ば数えてしまうとよ。職業病。彼女の脈、速か。たぶん100超えとった。俺のせいで。うわ、ってなった。
唇の端から、ひとすじ、顎のほうへ伝ったとば、親指でぬぐった。ぬぐったとこが、部屋の冷えた空気に当たって、彼女が小さく身ぶるいした。
それで、ここで俺がやらかす。
彼女のパジャマのボタン、上から外しよったら、彼女の指が、俺のジャージの胸に当たって、そこで止まって、「……かたか」て言うたと。
かたか。
調子に乗った。
ジャージ脱いで、胸筋ば、ピクッて動かした。右、左、右。ベンチ130kgの胸。救助隊の胸。
彼女、真顔で三秒見て、それから顔ば両手でおおって、肩が震えだした。
「なんで今それすると」
「いや、見せたかったけん」
「ふ……ふふ、ぴく、ぴくって……」
しばらく笑いよった。ベッドの上で、丸まって。俺もつられて笑うた。俺の笑い声はでかかけん、また人差し指で口ば押さえられた。押さえられたまま、その指先ば噛んだ。そしたら笑い声が、ふって止まった。
今思えば、あそこが分かれ目やった気がする。
ボタンの残りは、彼女が自分で外した。四つ。指先が、ちょっと震えとった。
肩から、水色の布がすべり落ちる。鎖骨。細か。細すぎて、そのくぼみに小指の先がすっぽり入る。そこに唇ば沈めたら、肌が、紙みたいに薄かとに、下に血のめぐっとるのがわかる。白か肌の下で、桜色が、じわっと広がっていった。
ベッドに倒れこんだら、スプリングがギシッて鳴った。俺82kgやけん。毎回すまん、ベッド。
彼女の体は、俺の下にすっぽりおさまる。156cm。肩幅は、俺の半分くらいしかなか。救助訓練で背負う要救助者人形は、だいたい60kg ある。重かとよ、あれ。でも彼女はそれより、ずっと軽か。軽かとに、腕の中におると、装備ぜんぶ背負ったより重たか。いや、重たかって悪か意味じゃなくて。なんて言えばよかとやろ。落としたらいかんもんの重さ。
右肩、ちょっとピキッてした。2022年からのやつ。黙っとった。
背中に手ば回す。首のつけねから、背骨のくぼみば、ひとつずつ。彼女、背中が弱かとよ。指が腰の手前まで降りると、背中が、ぐうっと反る。反ったとこの、ちっちゃか谷に、しっとりと湿りが溜まっとった。指がぬるっと滑った。滑ったとこから、彼女の体が、なんかこう、ほどけるみたいに、ふにゃっと力が抜けていった。
ここで腹が鳴った。俺の。
ぐぅぅぅ、て。卵焼き半分しか食うとらんけん。焦げとったけん。
彼女が、俺の腹に耳ばくっつけて、「……要救助者」て言うた。
今日いちばんウケた。二人で、またしばらく使いものにならんかった。
でも、笑いがおさまってくると、さっきより近かったとよ。全部が。
膝の裏に、手ば入れた。そこ、しっとりしとって、手のひらが吸いついた。持ち上げると、彼女の脚が、俺の腰のほうに、すっと寄ってきた。太ももの内側。陽に当たったことのなか白さ。そこに頬ば寄せたら、俺の夕方のひげがざらついたとか、彼女が「いた、ちく」て笑いまじりに言うた。すまん。剃ってから寝ろよ俺。寝落ちしたとやった。
彼女の体の奥が、ゆるんでいくのがわかった。
雨の降りはじめみたいやった。最初はぽつ、ぽつ、て、アスファルトに丸か染みができるだけで、それが気づいたら、ざあっと全部ぬれて、どこが乾いとったか、もうわからんくなるやつ。八浦の晩白柚の、あの分厚か皮に親指入れて、ぐっと割ったときに、中から甘酸っぱか汁がとろっとあふれて手首まで伝ってくる、あれ。においまで、なんかそんな、ほんのり甘か感じがした。
指が、そのぬかるみに触れると、彼女の喉の奥で、小さか声がこぼれた。ふだん、読み聞かせでしか出さんような、やわらかか声。俺の名前の、最初の一文字だけで止まるやつ。
「ひ……」
それだけで、もう、なんさま、だめやった。
俺らは、話しおうて決めとる。彼女は、生理痛のひどかけん、春から婦人科で薬ばもろうとって、毎朝ちゃんと同じ時間に飲みよる。あの薬は、毎日ちょっとずつ、体に「いまは準備せんでよかよ」て言い聞かせとるようなもんらしか。飲み忘れたら効き目がゆるむけん、スマホのアラームが朝7時に鳴る。俺が当直の朝は、俺のスマホも同じ時間に鳴る。お互い確認しあう。体育会系の点呼みたいなもんたい。
それでも、毎回思う。もしも、があったら、俺は全部引き受ける。いや、引き受けるとかやなくて、たぶん、跳ねて喜ぶ。指輪貯金、まだ28万。目標40万。足らんぶんは、焼肉ば我慢する。
彼女の上に戻って、おでこに、おでこば当てた。
眼鏡のなか目が、近か。まつげの先に、さっき笑いすぎた涙が、まだちょっと光っとった。
「よか?」て聞いた。
「……うん。よかよ」
ゆっくり、重なった。
彼女の息が、喉んとこで止まった。止まって、それから、俺の首の後ろにまわった腕に、ぎゅっと力がこもった。俺も、しばらく動けんかった。あったかか。とろけそうに、あったかか。冬の訓練で冷えきった手ば、ぬるか湯につけたときの、最初のじんじんする感じが、体の真ん中で、ずーっと続いとる。
最初は、揺れとるかどうかもわからんくらい。
寄せて、引いて。引くたびに、肌と肌が、ちいさく吸いついて、ぴたっ、て離れる。濡れた音が、雨の音にまざる。
カーテンの隙間から、街灯の白か光が一本、入ってきとった。それが、彼女の首筋から鎖骨まで、斜めに切っとった。動くたびに、白か線が、喉の上を行ったり来たりする。壁には、本棚に重なって、二人ぶんの影。でかか影と、ちっちゃか影が、ひとつのかたまりになって、ゆっくり、ゆっくり、揺れよった。
本棚に見られとる、て、また思うた。もう、どうでもよかった。
だんだん、深くなる。
彼女の指が、俺の背中ば這う。肩甲骨のあいだのとこ。そこを爪の先で、きゅっと引っかかれた。ちょっと痛か。痛かとが、うれしか。俺の腕の、力こぶのとこば、彼女の手がつかんどった。指がまわりきらんで、半分しか握れとらん。それでも、必死で握っとった。
彼女の膝が、俺の脇腹ば挟む。かかとが、俺の腰の後ろで、ぎゅっと引き寄せる。
そのとき、左のふくらはぎがつった。
こむら返り。最中に。スクワット180kgの脚が。
「っだ!!いだだだだ!!」
声、でかかった。今日三回目。彼女が、下から、目ばまんまるにして、俺ば見とった。それから、俺の足首ばつかんで、つま先ば、ぐいって手前に反らしてくれた。ストレッチの正しかやり方で。この人、俺のぶんの救急法の本も読んどるとよ。
二人とも、ゼイゼイ言いながら、また、笑うた。もう、笑いすぎて、彼女のお腹が、俺の腹の下で、ひくひく波打っとった。その波打つのが、そのまんま、俺にも伝わってきて。
笑いが、そのまんま、別のもんに変わっていった。
あれは、なんて言えばよかとやろ。笑い声がだんだん細うなって、細うなったぶんだけ、彼女の体の奥が、俺ばきゅうっと抱きしめてくる。さっきより、ずっと近か。とろとろで、熱うて、もう、どこまでが俺で、どこからが彼女か、わからん。
「ひろ……」
今度は、最後まで呼ばれた。
背中が、反った。彼女の。細か背骨が、弓みたいにしなって、喉が、天井に向かって白う伸びた。太ももの内側が、こまかく震えだして、つま先が、きゅっと丸まった。俺の腕ば握っとった指が、ぎゅうっと食いこんで、それから、ほどけていった。息が止まったまま、何秒か。そのあと、長うて、震えた吐息が、俺の鎖骨にかかった。
それを、全部、腕の中で受け止めとったら、俺も、もう、限界やった。
ベンチで、最後の一回、潰れる寸前のバーベルば、歯ば食いしばって押し上げて、ラックにガシャンて戻した瞬間。全身の力が、一気に抜けるあれ。あれが、腰の奥から背骨ば駆け上がってきた。頭ん中が、白う弾けた。心臓が、ポンプ車のエンジン全開。
彼女の髪に顔ばうずめて、彼女の名前ば呼んだ。たぶん、本名で。ここには書かん(照)。
全部、彼女の中に、預けた。
彼女が、俺の背中ば、ぽん、ぽん、て二回たたいた。子どもば寝かしつけるときのリズムで。読み聞かせのとき、絵本ば閉じる前にやる、あのリズムで。
しばらく、二人とも動けんかった。
俺の胸と、彼女の胸のあいだで、汗がうすか膜になって、だんだん冷えていった。ひんやりしてくる。それでも、離れたくなかった。俺の心拍が、140くらいから、ゆっくり、80まで落ちていくとを、彼女の胸ごしに数えとった。彼女のほうが、ちょっと先に落ち着いた。体力じゃ勝っとるとに、なんでやろ。
「重か」て言われた。
「すまん」て言うて、横にずれた。ずれるとき、肌が、ぺりって音たてて離れた。二人で、また笑うた。
後始末は、彼女がティッシュの箱ば手さぐりで探して、俺が先に見つけて、渡した。暗か中で、彼女が小さか声で「ありがと」て言うた。それから「あっち向いとって」。はい。あっち向いた。本棚があった。『はじめてのキャンプ』と目が合うた(笑)。
彼女が戻ってきて、俺の腕の中にもぐりこんだ。足の裏が、また冷たくなっとった。俺のふくらはぎに、ぺたって当ててくる。さっきつったとこ。「いだ」て言うたら、くすくす笑うて、わざともう一回当ててきた。
それから、ぽつっと。
「……映画、来週の月曜、もう一回行こう」
「行く!!絶対!!前の日、当直入っとらんごと調整する!!」
「声」
「すまん」
で、そのあと彼女が、天井見たまま言うた。
「再来年くらいには、もっと広か部屋に住みたかね。本棚、もう一個置けるとこ」
ドキィッてした。心拍、また120。
なんも言えんかった。言うたら、指輪のこと全部バレそうで。「……うん」て、それだけ言うて、彼女の頭ば、ぎゅうって抱えた。来年な。来年、俺が先に言う。待っとって。
彼女は、すぐ寝た。
寝つき、俺よりよかとよ。俺の腕枕で、口ちょっとあけて、すうすう言いよる。
ここで俺は、作戦ば実行した。
指輪のサイズ。
前回は、寝とる彼女の指に糸ば巻こうとして、糸が絡まって自分の指ごとほどけんくなって失敗した。今回は進化した。付箋。彼女が本に貼りよる、細長かやつ。机の上から一枚ちぎって、そっと、左手の薬指に巻く。重なったとこにボールペンで印つけたら、完璧やろ。
巻いた。
印つけようとした。
暗くて、ペンのキャップが外れんで、歯で噛んで外したら、キャップが彼女のほっぺに落ちた。
「……ん」
彼女、寝ぼけたまんま、左手で俺の指ばにぎって、そのまま自分の胸元に抱えこんでしもうた。付箋ごと。ガッチリ。
抜けん。抜いたら起きる。
で、いま。腕枕したまま、左手だけでこれ書いとる。右腕の感覚ゼロ。肩もちょっと怪しか。右手の人差し指は、彼女の胸元で、付箋と一緒に人質になっとる。でも全然よか。寝顔が近すぎて、まだ寝られん。
明日の朝、あの付箋見つかったら、なんて言い訳しよう。
「脈ば測りよった」で、通るやろか。
……左手の薬指で?
通らんよね。
以上、のろけでした。彼女は読んどらんよね?
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